2022年2月16日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 誘惑と試練(その1) 「ヤコブの手紙」1章2〜18節

 誘惑と試練(その1)

「ヤコブの手紙」1章2〜18節

 

これから扱う箇所には多様な視点があらわれます。

しかし、それらは「誘惑」あるいは「試練」という言葉に集約できるでしょう。

 

ヤコブは二つのタイプの連鎖反応を私たちに提示しています。

それらは肯定的な連鎖反応(2〜4節)と否定的な連鎖反応(14〜15節)です。

私たちが自分自身の生活を内省する時、

はたしてどちらの連鎖反応が起きていることに気づくことになるのでしょうか。

選択肢は次の二つです。

 

1)試練〜忍耐〜完全性 

2)誘惑〜欲望〜罪〜死

 

ところで「主の祈り」には「われらを試みにあわせず」という祈りがありますが、

この「試み」とは誘惑のことなのでしょうか、

それとも試練のことなのでしょうか。

伝統的なキリスト教の考え方によれば、

試練は信仰者を訓育する肯定的なものですが、

誘惑はそれとは反対に信仰者に傷を負わせる否定的なものです。

また、信仰者にとって誘惑は遠ざけるべきものですが、

試練は避けることができないし避けるべきものでもありません。

 

キリスト信仰者が罪に堕落する多くの場合の原因となるのは、

本来ならば誘惑(あるいは試練)から逃れるべき時に

自らその誘惑(あるいは試練)に挑んでいったことにある、

と説明した聖書の教師がいました。

とはいえ

いつも逃げ回っているばかりでは信仰において強められることもないでしょう。

はたして信仰者は誘惑(あるいは試練)からいつ逃げ去るべきであり、

またいつ立ち向かうべきなのでしょうか。

 

先ほど述べた二つの連鎖反応に共通して言えることは、

先に進めば進むほど

それを停止させることがよりいっそう難しくなっていくという点です。

 

「だれでも誘惑に会う場合、

「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。

神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、

また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」

(「ヤコブの手紙」1章13節、口語訳)

 

この節は「誘惑は神様からくる」と考える人々が当時いたことを示唆しています。

しかしこのような考え方には

「神様が私を弱い者として創造なさったせいで私は罪を犯すのだし、

それに対して何をしてみたところで結局は無駄である」

という諦念が含まれているように思えます。

たしかに「試みる者」(すなわち悪魔)も

全能なる神様の権威の下に服している存在です。

とはいえ私たち人間は自らの罪の堕落を神様のせいにすることはできないのです。