2022年2月2日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 評価の分かれる手紙

 評価の分かれる手紙

 

新約聖書に含まれるべき福音書や手紙等の選定が最終的に済んだ時に

「ヤコブの手紙」を新約聖書に入れることを問題視した人々がいたことが

知られています。

彼らは「ヤコブの手紙」が使徒の手によるものでもなければ

異邦人キリスト教徒に向けて書かれたものでもないと主張し、

パウロの教えと矛盾していると考えたのです。

 

宗教改革者マルティン・ルターもまた「ヤコブの手紙」に対して

批判的な態度を取りました。

それは彼が書いた「ヤコブの手紙」に関する次の序文からもわかります。

 

「この聖ヤコブの手紙を昔の人々が捨ててしまったのはたしかだ。

しかし私はこの手紙に感謝しているし、よい手紙だとも思っている。

なぜならこの手紙は人間の教えを宣べ伝えようとはしておらず、

それとは逆に神様の律法の大切さについて熱心に教えようとしているからだ。

これから私は自分の意見を述べようと思うが、

それによって誰のことをも傷つけるつもりはまったくない。

私はこの手紙を使徒によって書かれたものであるとみなすことはできない。

その理由をこれから述べていくことにする。

第一に、聖パウロや聖書の他のすべての書物群とは反対に、

この手紙は行いを義なるものとして描いており、

2章21節で「わたしたちの父祖アブラハムはその子イサクを祭壇にささげた時、

行いによって義とされたのではなかったか。」と述べている。

ところがそれとは正反対に、聖パウロは「ローマの信徒への手紙」4章2節で

アブラハムは行いによってではなく信仰のみによって義とされたと教えている。

パウロはこのことを旧約聖書の「創世記」の記述

(アブラハムが我が子を神様に犠牲の捧げ物とする前に義とみなされたこと)

に基づいて証している。

この手紙が「行いによって義とされる」という立場をとっていることには

何らかの説明を与えることはできる。

しかし2章21節以降の記述で「創世記」15章6節

(「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」)

を「行いによる義」として理解するその考え方を弁護することはできない。

「創世記」の箇所は聖パウロも

「ローマの信徒への手紙」4章3節で引用しているように、

アブラハムの行いではなく信仰についてのみ語っているのである。

それゆえ、このような欠けた点があることからして

この手紙は使徒の書いたものではないと結論することができる。

第二に、この手紙はキリスト教徒を教えようとしているが、

この長い教えの中でキリストの受難や復活や御霊については

一度も言及していない。

キリストの御名は二度ほど出てくるが、

キリストがどのようなお方であるかということについてはまったく教えないまま、

ただたんに神様への一般的な信仰について語っている。

正しい使徒職とは、キリストの受難と復活と使命について説教し、

このキリストへの信仰をキリスト教信仰の基とするためのものである。

キリスト御自身が「ヨハネによる福音書」15章27節で

「あなたがたも(・・・)あかしをするのである。」

と言っておられる通りである。

正統な聖書に含まれる書物群は

それらすべてがキリストについて宣べ伝えキリストをひたすら追求している

という点で一致している。

またキリストについて正しく述べているかいないかを明らかにしてくれる

という意味でこの特徴はあらゆる書物を評価する際の正しい基準ともなっている。

聖書全体はキリストを証している(「ローマの信徒への手紙」3章21節)。

パウロはキリスト以外のいかなるものについても知りたいとは願っていない

(「コリントの信徒への第一の手紙」2章2節)。

主キリストについて教えないものは、

たとえそれを教えているのがペテロやパウロであったとしても

使徒的ではない。

その一方では、キリストについて宣べ伝えている者は、

たとえそれを行っているのがユダやアンナスやピラトやヘロデであったとしても

使徒的なのである。

ところがこのヤコブは律法とその行いばかりを追求している。

それに加えて彼は一つの話題からもう一つの話題へと

構成を考えずに飛び跳ねているため、

善意と正義の人として使徒たちの幾つかの文言を収集したものを

彼自身が書き記したか、

あるいは誰か他の者が彼の宣べ伝えたことに基づいて手紙を書いたのではないか

と私は推測する。

1章25節で彼は律法を「自由の律法」と呼んでいるが、

それに対してパウロは律法を「奴隷と怒りと死と罪の律法」と呼んでいる

(「ガラテアの信徒への手紙」3章23節以降、

「ローマの信徒への手紙」4章15節、8章2節)。

そのほかにも彼は4章10節で聖ペテロの言葉

「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。」

(「ペテロの第一の手紙」5章6節)を引用している。

また4章5節ではパウロの言葉

「御霊の欲するところは肉に反するからである。」

(「ガラテアの信徒への手紙」5章17節)も使用している。

ヘロデがペテロの殉教以前にヤコブを殺害した可能性もなくはないが

(「使徒言行録」12章2節)、

これらのことから考えて「ヤコブの手紙」の書き手は

ペテロやパウロの殉教後にもこの世で生きていたのではないか

と推測することができる。

短くまとめると次のようになるであろう。

「ヤコブの手紙」の書き手は行いなき信仰に依り頼む者たちに反対しようとした。

しかし霊や理解や言葉によっては反対することができなかったため、

聖書を引き裂いてしまった。

こうして彼はパウロや聖書全体に対抗した。

使徒たちが人々の心を神様の御心にかなう愛へと向けさせたことを、

彼は律法を教えることによって実現しようとしたのだ。

それゆえに私はこの手紙を

私の聖書の中で正しい主著のうちのひとつに数え入れるつもりはない。

とはいえ他の人がこの手紙の書き手を高く評価するとしても、

それを妨げるつもりもない。

この手紙にとてもよい言葉がたくさん含まれていることもたしかだからである。

この世のことについても人はひとりでは何もできない場合が多い。

ましてやこの人物がたったひとりで

パウロ(の手紙)や聖書の他の書物群の絶対的な価値に反対するようなことが

ありえようか。」

(以上、ルターによる「ヤコブの手紙」についての説明)

 

しかし「パウロとヤコブは本当に互いに正反対の考え方をしていたのか、

それともパウロの教えに関する間違った解釈とヤコブの考え方との間に

齟齬があったのか」というのは熟考を要する問題です。

それについては後ほど2章の説明でより詳しく扱うことにします。

 

ルターの批判の影響もあってか、

新約聖書において「ヤコブの手紙」の置かれている位置は

翻訳によってまちまちな場合があります。

ある翻訳では公同書簡の中で最後から二番目に置かれています。

しかし「口語訳」も含め大多数の現代語訳の定本となっているギリシア語聖書

Nestle-Aland版)では「ヘブライの信徒への手紙」のすぐ後に続く

一連の「公同書簡」の中の最初の手紙になっています。