2021年6月23日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 唐胡麻の木の教え 4章4〜11節(その1)

 唐胡麻の木の教え 4章4〜11節(その1)

 

ヨナは神様の御心が変わることを期待しつつニネヴェの東側に移動し、

この都市がこれからどうなるか見届けるために待つことにしました。

 

「今回だけは、神様はいつもとはちがうやり方をなさるのではないか」とか

「たぶん私に対してだけは、神様は例外的な態度をとってくださるのではないか」

という期待を込めた憶測は、

時には私たちにも魅力的に映ることがあるのではないでしょうか。

しかし、神様が御言葉を通して明らかに啓示されている御心に反するやり方で

活動なさることはありません。

その意味では、神様が心変わりするのをヨナが期待したのは無駄でした。

 

キリスト教会の歴史をみるとわかりますが、

おびただしい数の様々な異端の集団が荒野にひきこもり

「神様をないがしろにする彼ら以外の人々」が滅びるのを

今か今かと待ち受けたケースが今までたくさんありました。

異端の信奉者たちの態度には、

福音を伝えてあらゆる人々を分け隔てせずに

救いへと招きたいという情熱がまったく欠けています。

彼らは「神様をないがしろにする人々」からできるだけ遠ざかり、

彼らが滅ぶのを冷ややかに傍観する態度をとりました。

私たちはキリスト教会がこのようなまちがった方向に進まないように

祈りたいと思います。

 

ヨナはニネヴェの行く末を我が目で見届けるために待ち続けることにしました。

これはヨナ自身にとって無意味な時間ではありませんでした。

神様はヨナに大切なことを教える機会としてその時を利用してくださったからです。

 

ヨナは見晴らしの良い場所に座りました。

神様が成長させた唐胡麻の木はヨナに涼しい日陰をつくってくれました(6節)。

ヨナは唐胡麻の木とその木陰のことを喜びました。

 

ところが、次の日になると神様は虫によって唐胡麻の木をだめになさいました。

唐胡麻の木のことでヨナはふたたび神様に対して怒りを発しました。

 

これと似たような出来事は私たちの人生でも起こったことがあるでしょうか。

何が人生で一番大切なことかがわからなくなり混乱してしまうことは

私たちにも身に覚えのあることではないでしょうか。

神様の恵みや大いなる愛についてあまり神様に感謝もせず、

むしろごく些細なことについて神様にいちいち腹を立てていることがありませんか。

私たち人間は小さな事柄にばかり気を取られ木を見て森を見ないことがよくあります。

 

ヨナは唐胡麻の木が枯れたことを残念がりました。

なぜなら、その木はヨナ自身にとって有益なものだったからです。

ここにも預言者ヨナの自己中心的な心があらわれています。

私たちも、自分と神様との間の関係ばかり考えて

自分と隣り人たちとの間の関係を忘れてしまうと、

結果的には神様との関係も歪んでしまい、自己中心的な傾向が強まるものです。

「人間と神様との関係においては、

神様と人間との間の「垂直関係」と人間同士の「水平関係」という両方の関係が

同じように大切である」と言われることがありますが、

れは的確な指摘であると思います。

「最も重要な戒めは神様のことを他のすべてよりも深く愛することであり、

この戒めと同様に重要なもうひとつの戒めは

自分自身を愛するのと同じように隣り人を愛することである」

とイエス様も教えておられます。

 

「さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、

一緒に集まった。

そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。

イエスは言われた、

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である、

『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」」

(「マタイによる福音書」22章34〜40節、口語訳)