2021年6月16日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 「ヨナ書」4章 ヨナを諭される神様 ニネヴェの恩赦を承認しないヨナ 4章1〜3節

「ヨナ書」4章 ヨナを諭される神様

ニネヴェの恩赦を承認しないヨナ 4章1〜3節

 

自分が伝えたメッセージをニネヴェの人々が受け入れてくれたわけですから、

本来ならヨナは満足するべきところです。

ところが、ヨナの反応はそれとはまったく逆のものでした。

ヨナは喜ぶどころか怒り出したのです。

 

2節でヨナは自分がタルシシに逃げ出した理由を明かします。

ヨナは神様がニネヴェを憐れまれることを望まなかったのです。

 

「(ヨナは)主に祈って言った、

「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。

それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。

なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、

怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、

知っていたからです。」

(「ヨナ書」4章2節、口語訳)

 

神様が憐れみ深いお方であることを認めてそれを公に告白する一方で、

神様のその憐れみ深さを好ましくないと思っているヨナの態度はいかにも奇妙です。

 

1980年代の終わり頃、大学生向けのある雑誌に、

若くしてキリスト教徒からイスラム教徒に改宗した

フィンランド人女性のインタヴューが載りました。

彼女は自分が改宗した理由として次の二つの点をあげました。

 

1)イスラム教ではどのような生き方をすべきかについて

明確な指針が与えられているが、

キリスト教では自分自身で物事を決定していかなければならない。


2)イスラム教では罪は赦されない。

それに対して、キリスト教徒は「神は憐れみ深い」と知っているがために

罪を行うことができる。

 

神様が罪を赦すことを許すことができない人間は

何もこの女性ひとりだけではないでしょう。

しかし、こういう人のうちの多くは

神様が他の人々の罪を赦すことは承服できないくせに、

自分自身の罪を赦してもらえることは問題だと思っていません。

 

4章2〜3節のヘブライ語原文には

「私」という言葉が動詞の主語や所有名詞などの形でなんと9回も出てきます。

ヨナがいかに自己中心的に考えていたのかがよくわかる箇所です。

神様がニネヴェを憐れもうとされることを喜ばないヨナの態度には

「神様の恵みは自分や自分の属する国民にだけ与えられるべきだ」

と考えるヨナの本音が見え隠れしています。

 

幸いなことに、

私たち人間は神様の恵みの及ぶ範囲を勝手に制限することができません。

 

神様の憐れみ深さに対してヨナは「自らに死を望む」という態度で応じました(3節)。

自らの死を願うヨナの姿は、

次に引用する「列王記上」の預言者エリヤを彷彿とさせます。

ただし、エリヤの場合は

王妃イゼベルがエリヤの命をつけ狙っていたのが自らに死を望む理由でしたが。

 

「自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、

自分の死を求めて言った、

「主よ、もはや、じゅうぶんです。

今わたしの命を取ってください。

わたしは先祖にまさる者ではありません。」

(「列王記上」19章4節、口語訳)

 

おそらくヨナが怒ったのは彼の予言が実現しなかったせいでもあったでしょう。

ヨナは自尊心が傷つけられたと感じたのではないでしょうか。