2020年2月14日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 民の祈り 「詩篇」51篇20〜21節

民の祈り 「詩篇」51篇20〜21節

すでに解説したように、
この箇所は歴史的な状況に関連している可能性があります。
もうひとつの可能な解釈は
「動物犠牲を捧げる世俗化した宗教儀式が本来のありかたに立ち戻るように
この詩篇朗唱者は祈っている」というものです。
しかし、第一の解釈のほうがより事実に近いと思われるので、
以後それに基づいて説明をしていくことにします。

この「詩篇」で個人について語られていることがらは
民全体にもあてはまるものです。
個人だけではなく神様の民全体が自らの罪によって神様の怒りを招き、
その罪に見合う罰を受けることになりました。
個人の生活における罪を弁護することができないのと同じように、
この民全体の罪の場合も神様に対して正当化することができません。
また、すでに行ってしまった罪をなかったことにして
帳消しにできる人もいません。

罪深い民に残された唯一の安全な生き方は、
神様の絶えざる憐れみに、
また神様の契約への忠実さに
避けどころを求めることです。

現実の歴史ではどのようなことが起きたのでしょうか。

神様はペルシア王キュロスを召して、
それまで君臨していたバビロニア帝国を滅亡させました。
このようなやり方で神様は、
かつて神様の民を打ちのめした敵どもを
今度は他の勢力によって弱体化させ、
捕囚の状態にいた諸国民を解放なさったのです。
それらの解放された民の中には
かつてのエルサレムの住民たちも含まれていました。
キュロス王の勅令に従い、彼らもまた故郷エルサレムに帰還しました。
そして城壁を建設し、神殿をふたたび本来の「神殿」として聖別しました。
そして、この民の中から、
その到来がかつて約束されていたキリストが
罪人の贖い主」として後に生まれることになります。