2020年2月5日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様の守りの中に逃げ込む 「詩篇」51篇8〜19節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様の守りの中に逃げ込む 「詩篇」51篇8〜19節(その1)

いくら犠牲を捧げても
自分の罪の負債から解放される可能性がまったくないことが
詩篇朗唱者にはわかっています。
犠牲の動物をいくら屠殺したところで、
人が罪から救い出されるはずがありません。
しかし
「自分が神様から罪の赦しをいただくのはもう無理だ」
と諦めてしまうのが彼の導き出した最終的な結論ではありませんでした。
むしろ彼は逆の行動をとります。
すなわち、
罪の赦しの恵みをいただいて罪から解放されることを
詩人は神様の御前に留まって祈り願うのです。
「主なる神様、どうか私を御顔の前から追い払ったりしないで、
むしろ御顔を私の罪から逸らしてください」
と詩人は懇願します。
もしも神様が詩人に無実の人の血を流した罪から解き放って
新たな人生を歩むことを許してくださるならば、
詩人の心は開かれて憐れみ深い神様を感謝して賛美することでしょう。
このように、
罪と裁きと罪の赦しの恵みとはひとえに神様の御業によるものなのです。


ここで思い出されるのが次に引用する
「ルカによる福音書」18章に登場する取税人です。

「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、
イエスはまたこの譬をお話しになった。
「ふたりの人が祈るために宮に上った。
そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、
『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、
不正な者、姦淫をする者ではなく、
また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、
目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、
『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
あなたがたに言っておく。
神に義とされて自分の家に帰ったのは、
この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう」。」
(「ルカによる福音書」18章9〜14節、口語訳)

この取税人は神様の御前で自分自身の罪深さについて一切弁明せずに
「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈りました。
人が自らの罪深さを自覚した上で、
それでもなお神様の御前に進み出て
恵みと罪の赦しを神様に祈り願う姿勢について
ルターは次のように書いています。

「これは天からの知恵です。
律法がこのことを教えたのではありません。
まして理性には聖霊様の助けなしに
このことを理解するのも把握するのも不可能なことです。」
(マルティン・ルター)