2020年2月10日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様の守りの中に逃げ込む 「詩篇」51篇8〜19節(その2)

 「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様の守りの中に逃げ込む 「詩篇」51篇8〜19節(その2)

罪を憎まれる神聖なる神様の怒りを鎮める方法を、
罪深い存在である人間自身はもっていません。

旧約の世界にあるような、
動物を犠牲として屠ることで神様の怒りを鎮めようとする宗教的儀式は
現代の世界でも形を変えて存続しています。
ある人はお金によって、
ある人は服装を変えることによって、
ある人は言葉づかいに気をつけることによって、
またある人は慎み深い生活をすることによって
神様の好意を得ようとします。

しかし、このようなやりかたによっては何の助けも得られません。
それどころか、
それらの試みはいっそうひどく神様を侮蔑する行いになるばかりなのです。
深く惨めな私たちを助けてくれるのはひとえに神様の恵みのみです。

「新約の民」すなわちキリスト信仰者である私たちは
この恵みと出会える「場所」が
キリストの十字架の血のほかにはないことを知っています。

また、この「詩篇」からは
「できることなら罪から自由な清い存在でありたい」
という心からの詩人の叫びが伝わってきます。
彼は罪の赦しを願い求めるだけではなく、
新たな清い心と生き方とを神様に祈り求めています。

ここに私たちは
キリスト教信仰の基本にかかわることがらを確認することができます。
すなわち、
恵みの意味を理解した者にとって
罪の赦しは慎みのない罪深い生き方を追認するものではない
ということです。

「恵みの子」は自らの弱さを嘆き悲しみながらも
今よりも善い者であろうと欲するものです。
しかし、
自らの力に頼るかぎりそれは決して実現しません。
だからこそ
「恵みの子」は神様に助けを願い求めるのです。
罪の負債がキリストの血の中にすっかり沈められたとき、
自ずとそれに続いて、
キリスト信仰者にふさわしい生き方を探し求める信仰の戦いが始まるのです。