2019年2月20日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 3章18〜22節 キリストの苦難と高挙(その3)

3章18〜22節 キリストの苦難と高挙(その3)

3章20節には不思議なことが語られています。
ノアが救われたのは「水を通して」でした。
「水によって」すなわち「洪水によって」ではなかったのです。
普通だったら後者のように理解するところでしょう。

ペテロが言いたいのは、
まさしく「水」がノアを悪人たちから救ったということです。
人間の罪こそが真の危険なのであり、
神様はノアをそれから救おうとされたのです。
それと同じように「洗礼の水」は
キリスト信仰者と、神様を信じない人々との間に境界を作ります。

「この水はバプテスマを象徴するものであって、
今やあなたがたをも救うのである。
それは、イエス・キリストの復活によるのであって、
からだの汚れを除くことではなく、
明らかな良心を神に願い求めることである」
(「ペテロの第一の手紙」3章21節、口語訳)。

ここで言う「からだの汚れを除くこと」とは
普通の意味で体を洗うことではありません。
手紙の受け取り手たちは洗礼と普通の入浴とを混同しませんでした。
使徒ペテロが意味しているのは、
罪を取り除こうとする人間自身の努力についてです。

洗礼では体を洗ってきれいにすることがポイントなのではありません。
そんなことをしても誰一人救われないからです。
しかし、洗礼は救います。
なぜなら、洗礼は
神様が保証してくださる「明らかな良心」についての契約だからです。

ギリシア語で「契約」を意味する言葉「エペローテーマ」は
元々は「願うこと」を意味していました。
しかし、時代が下るとともに
この言葉は取引の際に交わされる契約を意味するようになりました。