2017年4月28日金曜日

「祭司」と「牧師」について(その4)

「祭司」と「牧師」について(その4)

原著者 エルッキ・コスケンニエミ
(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
翻訳・編集者 高木賢
(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)
聖書の引用は原則として口語訳に拠っています。

牧師や祭司とは誰のことであり、
人はどのようにして牧師や祭司になるのでしょうか?

「一般祭司制」および「牧者の職制」は、
神様がキリスト教会に与えられた二つの大きな賜物です。
そのどちらも軽んじてはいけません。
また、あたかもそれらが互いに反しあっているかのように
みなすべきでもありません。
両方とも私たちには必要だからです。

旧約聖書の時代には、
イスラエルの民全体が「王直属の祭司階級」という位置付けでした。
にもかかわらず、
聖なる職務を遂行するのは誰でもよいというわけではなく、
それを許されていたのは、そのために任命された祭司たちのみでした。

これとまったく同様の理由から、
一般祭司制に基づいて誰でも主の聖餐式や洗礼式やざんげを執行してもよい、
ということにはならないのです。

もちろんざんげと洗礼とは、
緊急の場合には一般の信徒であっても執行することができます。

聖礼典(洗礼と聖餐)の執行と、
それを通してなされる教会に対する責任とは、
教会がそのための「牧者の職制」に任命した特定の男性に属しています。

どれほどこの責任が恐ろしいものであるかは、
すでにあげた「使徒言行録」20章に加えて、
次にあげる「コリントの信徒への第一の手紙」31015節からも
よくうかがえます。

「神から賜わった恵みによって、
わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。
そして他の人がその上に家を建てるのである。
しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、
だれにもできない。
そして、この土台はイエス・キリストである。
この土台の上に、だれかが
金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。
すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、
またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。
しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、
救われるであろう。」   
「コリントの信徒への第一の手紙」31015節)

すなわち、
教会の「牧者の職制」を委ねられた者が
自らの職務をどれだけよく(あるいは悪く)遂行したかを最終的に吟味するのは、
他の人々ではなく「最後の日の火」である、ということです。

「一般祭司制」はその影響力や活動の観点からみると
「牧者の職制」よりもはるかに広範囲にわたるものです。

キリスト信仰者がひとりでもいるところには、
たとえばその人が高齢で病気の床に伏している詩人であろうと、
だっこされている赤ちゃんであろうと、
最良のコンディションの体力を要する職種の者であろうと、
あるいは家庭の母親であろうと、
そこにはたしかにキリストの教会が存在しています。
そして、その人を通して主の偉大なる御業が告知されているのです。

道端の人たちや職場や家庭や近所の人たちに主の御業を伝えていくのは、
キリスト信仰者ひとりひとりに与えられている大きな使命です。

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