イエス様の十字架刑(下)
十字架の血の福音
イエス様が復活なさった後、
人々を罪の呪いから救い出す福音はあらゆるところへと伝えられていきました。
多くの者にとっては「十字架で殺された神様の御子」というメッセージは
愚かしく感じられるものでした。
十字架刑を一度でも見たことがある者なら誰であれ、
それがどのようなものか知っていました。
十字架につけられたキリストについてのメッセージは、
それを耳にした人々を躓かせました
(「コリントの信徒への第一の手紙」1章23節)。
すでに教会初期の頃のキリスト教徒の中にも、
神様の御子イエス・キリストには本来ふさわしくないはずの
このように凄惨な死に方について口をつぐむ人々がいました。
「イエス様が苦しんだのは外見だけで、実は肉体は苦しまずにすんだのだ」、
などと言い出す者さえいました。
こうした考え方とは反対に、イエス様の弟子たちは、
まさにイエス様の十字架の死の中に信仰の核心を見出したのです。
イエス様は神様の愛の御旨に対して最後まで忠実を貫かれました。
イエス様は十字架上で父なる神様に見捨てられ、呪われた者となりました
(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節)。
イエス様は人々から侮られさげすまれるために、
十字架の上へと「挙げられました」(「ヨハネによる福音書」3章14~15節)。
まさにこのようにして、
イエス様は御自分の上に私たちの罪のもたらす懲罰を
「私たちの身代わり」としてお受けになったのです。
私たちは次のような意味で、
イエス様と「持ち物」を交換することが許されました。
イエス様は、
私たちが自分たちの罪の報酬として受けるのが当然であるはずの神様の怒りを
代わりに引き受けてくださいました。
その一方で、私たちは、
イエス様が罪なき方の義の報酬として受けるはずの神様の愛を
代わりにいただいたのです(「コリントの信徒への第二の手紙」5章21節)。