2015年5月4日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(7章)


終わりのメッセージ(7章)

「このようにして、私自身は、
心では神様の律法に仕えていますが、
肉では罪の律法に仕えているのです」
(「ローマの信徒への手紙」725節より)。

これは、
同じ一人の人間が「神の律法」と「罪の律法」とに同時に仕えている、
というとても明確なメッセージです。
人は義とされた存在であると同時に罪深い存在でもある、ということです。

ただしパウロはここで、
「私の心は」神の律法に仕えています、とも、
「私の肉は」罪の律法に仕えています、とも
言ってはいないことに注意しましょう。
「私は」、とパウロは言っています。
つまり、同じ人格である一人の人間、「私」という全存在が
同時に二面的な事柄に仕えているのです。
そういうわけで、
彼は自分が神の律法に仕えることができることを感謝するとともに、
罪の赦しをも願っています。
なぜなら、彼は罪の律法にも仕えているからです。
しかしこれは、
肉的な存在である人間が神の律法に仕えている、
という意味ではありません。

私が先ほど言ったことを思い出してください。
神聖なるキリスト信仰者たちは、
同時に、罪深い存在でもあり義とされた存在でもあります。

彼らは義とされています。
なぜなら、
彼らはキリストを信じており、
彼らを覆うキリストの義を「彼らの義」として
父なる神様が認めてくださっているからです。

しかしその一方で、
彼らは依然として罪深い存在でもあります。
なぜなら、
彼らは律法を完全に守ることも
罪深い欲望をもたずに生きることもできない、
いわば医者にかかりっきりの病人に等しい存在だからです。

実際、彼らは依然として病気なのですが、
その一方では病の癒しも始まっているので、
いつか健康になるという希望ももつことができます。
つまり、彼らは治りかけの患者のようなものであり、
今後の健康は予断を許さない状態にあります。
処置の仕方によっては、
以前よりも症状が悪化する可能性もあるからです。


(マルティン•ルター 「ローマの信徒への手紙についての講義」より)