信仰の父、アブラハム 4章2〜8節
パウロは、アブラハムと神様との間の関係を深く考究します。
アブラハムが神様の御前で義とされたのは、
彼が神様の律法に従って生きたからでしょうか。
そうではありません。
なぜなら、彼は、
自分が正しく生きたとは一度も自慢していないからです。
それに加えて、聖書は、
「アブラハムは神様を信じました。
主はそれを彼に対して義と認められました」、
と記しているからです(「創世記」15章6節)。
正しく生きた人は、
誰からも「義と認められる」必要などはないでしょう。
なぜなら、
そのような人はすでに義人のはずであり、
このことに関して信仰が出る幕はないからです。
ところが、今ここで論じられているのは、
信仰の義についてなのです。
パウロによれば、
アブラハムは、神様の恵みに疑いを抱いた時、罪の状態に陥りました。
主はアブラハムに話しかけ、大いなる報酬を約束してくださいました。
それに対して、アブラハムは 、
「主なる私の神様、あなたは私に何をくださると言うのですか」、
と反抗的に答えます。
「神様は、私がすっかり年老いるまで
跡取り息子をくださらなかったのだから、
他のどんなものをいただいたとしても、私には無益だ」、
と彼は考えたのです。
アブラハムは、自分が神様に不当に扱われている、と感じています。
それで、反抗的な態度を取ったのでした(「創世記」15章1〜6節)。
神様は、
そのようなアブラハムを天幕の外に連れ出して、
彼に満天の星空を見せます。
ちょうど天にたくさんの星があるように、
アブラハムにもたくさんの子孫が与えられることを
お示しになるためでした。
アブラハムは反抗心を捨てて、神様を信じました。
パウロによれば、
この信仰が、アブラハムと神様との間の関係の基本にあります。
神様はアブラハムの反抗の罪を赦し、
その罪を彼自身に負わせることはなさいませんでした。
アブラハムの出来事の教訓は、非常に単純なことです。
たしかに、私たちは罪深い人間です。
しかし、私たちは、
神様のくださる恵みと罪の赦しに信頼することができます。
そして、キリストにしっかりつながっている限り、
私たちも、かつてのアブラハムと同じように、
神様に対する信仰の関係を保って、活き活きと歩むことができるのです。