2014年4月14日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(2章)

  
終わりのメッセージ(2章
   
裁きの宣告から逃げて
  
 
誰であれ私たちは、神様をないがしろにして生きてきた、
という裁きの宣告を受けるのが当然の存在です。

「私たちは誰からも指図を受けたくない。
私は誰に対しても負債を支払う義務がない。
私は自分自身の主人である。
私は民主主義の時代の子であり、社会の最高決定者だ。

神がいないので、裁きの宣告もない。
絶対的な命令もない。
規範は人間が作り出したものだ。
だから、私はすべてを相対的なものと宣言する。
戦争や、政治的な権力争いや、税金をごまかすことや、
その他の経済的な搾取や、離婚や、過度の飲酒に比べたら、
私のやった間違いなどは些細なものだ。
私の人生の歩みにはほとんど汚点がなかったとさえ言える。

もしも神が存在するとすれば、 
たとえば心理療法とか、
一人前の国民を育てることといった、
人をいたわって世話をする活動が、
神にあてがわれた仕事ということになるだろう。
「かしこより来たりて、生きる者と死にたる者とを裁きたまわん」、
という使徒信条にある言葉は、
人間の思い込みによるものにちがいない。」

私たち人間の生き方の主な目標は、
神様を端っこへと追いやるか、
あるいは、生活の中から完全に閉め出すことです。
神様を無視しようという誘惑は非常に大きく、
これは私たちキリスト信仰者の場合でも変わりません。

神様から自立するために御許から逃げ出すことについて、
聖書の啓示は、はっきり否定的な態度を取り、
「私は主、あなたの神である」、と宣言します。
これは、歴史全体を貫く、冷徹な裁きの宣告です。
毎日曜日の朝に、人々が自ら礼拝という裁きの場に集う有様は、
この世では最も珍しい眺めと言えるでしょう。

でも、本当に彼らは自発的にそうするのでしょうか。

もちろん、それは自発的なことではありません。
礼拝に通う人たちは、
遅かれ早かれ主に捕らえられた者、
今捕らえられている者だけです。
今も相変わらず人々は、
逃走を試み、実際に逃走し、
またその足跡を消し去ろうとしています。
それでも、
とうとう息を切らして、一休みするために立ち止まる時、
私たちは、憐れみの主が私たちを招いてくださる御声を耳にするのです。

耳を疑うかもしれませんが、
本当にこれは、あなたがその御許から逃げ出したのと同じ神様なのです。
しかし、逃避行を続ける中で、
私は神様のみわざを行うことができましょうか。
神様をないがしろにする、
この馬鹿げた傲慢な独立心をいい加減捨てて、
主の御国で主の臣下として生きる道を、
今から歩むことにしたら、どうでしょうか。


レイノ ハッシネン 「輝く明日」

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