蔑まれている神様の御名 2章17〜29節(その2)
パウロはまた、割礼についても述べています。
肉体に刻まれた目印(割礼)によっては、
誰も神の民の一員にはなれません。
神の民の一員になる場合には、
目に見えるような変化が、心の中で起きなければならないからです。
それに比べて、割礼を受けているかどうかは、二次的な問題です。
大切なのは、
神様がその人に満足しておられるかどうか、
ということなのです。
これは、
私たちにとって、身に覚えがありすぎて、
とても一笑に付すことなどできないことでしょうか。
私たちキリスト教徒は、
神様についてどのようなイメージを周りにいる人々に与えてきましたか。
近所の人や同僚は、私たちと一緒にいる時に、
活きておられる神様が私たちを通して働いておられることを
感じ取っているでしょうか。
それとも、
キリスト教徒と呼ばれる人も、他の人と特に何にも変わらないじゃないか、
と嘲笑するきっかけを、彼らに与えてしまっているのでしょうか。
活ける神様は、人間を愛に満ちた善き存在に変える力の源です。
しかし、
私たちの生き方を通してそのような神様への関心を抱いた人は、
あまりいなかったのではないでしょうか。