2009年12月18日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 1章3~14節

1章3~14節 

ほとんどすべてのパウロの手紙では、はじめの挨拶の後にすぐ神様への賛美がつづきます。これらの箇所からわかるのは、パウロが神様に日々感謝していた、ということです(コリントの信徒への第1の手紙1章4節、テサロニケの信徒への第1の手紙1章2節)。ここには私たちが学ぶべきことがたくさんあります。こうした手紙の書き方の背景に、一日を大いなる神様への賛美ではじめるユダヤ人たちの習慣があったのは、確かでしょう。この習慣はキリスト教会で何百年にもわたって守られ、今日でも教会の規範的な祈りの中に残っています。

「エフェソの信徒への手紙」から伝わってくる、神様の恵みについての御言葉は、深い意味をたたえた圧倒的なイメージに基づいています。天地創造よりも前に、神様はキリストにあって救いの計画を立てておられました。そしてまた、私たちをキリストにあって「御自分のもの」として選び出してくださったのです。こうして、私たちは皆、神様の究めがたい御意思により、神様の子供として定められました。なぜ私たちが神様に招かれたのか、なぜ聖霊様は私たちが主イエス様を信じるようにしてくださったのか、不思議です。ともかくも実際にそうなったのであり、私たちにできることは、そのことについて神様に感謝をささげることです。

「私たちは、御子にあって、神様のゆたかな恵みにより、御子の血をとおして、あがない、すなわち、罪過の赦しを受けたのです。神様はあらゆる知恵と思慮との中にその恵みを私たちに増し加えてくださいました。」(1章7~8節)これ以上美しくまた明瞭に、私たちの信仰の基礎を言い表すことは難しいでしょう。これを見つけた人は、揺るがない礎石を自分の人生に見つけたことになります。

9~14節はすでに手紙のはじめの部分の主題を扱っています。すなわち、キリストによる和解のみわざはユダヤ人と異邦人とをひとつにした、ということです。こうして、ユダヤ人ではないクリスチャンは皆、神様がはじめイスラエルの民だけに約束された相続分を、自分たちもいただけるようになりました。このことを私たちに確証するのが、聖霊様による証印、すなわち洗礼です。洗礼は、私たちには相続分、あがない、罪の赦し、あらゆる天の宝があることを、私たちに保証しています。

「エフェソの信徒への手紙」の最初の1章は、この手紙をわかりやすく説明する喜びと難しさをあきらかにしてくれます。手紙は言葉にはできないほど美しく、圧倒的に偉大な思想に満ち、テキストと深く取り組む者に対して、イメージが躍動し始めます。それと同時に浮上してくることがらがあまりにも大きいので、それらを個別に取り扱うことは、この段階では不可能です。幸いなことに、手紙のはじめの部分は、神様の大いなる救いの計画を何度もくりかえして語っています。今のところ私たちは、とても大きくて美味しいパンからたやすくちぎれる「かけら」を味わうことで満足することにしましょう。