2009年11月18日水曜日

マルコによる福音書について 16章9~14節

キリストは「御自分のもの」である弟子たちにあらわれます。 16章9~14節

イエス様の復活を証したのは天使たちの啓示だけではありません。不信仰な「主のもの」たちは、自分たちの先生が生きていることを信じるようになるために、疑う余地のないたくさんの証拠を必要としていました。イエス様がマグダラのマリアの目の前にあらわれたことについては、ヨハネによる福音書(20章1~18節)に詳しく感動的に語られています。こうしてマリアは「イエス様が復活して生きておられる」というメッセージを他の弟子たちへ告げる仕事を与えられましたが、弟子たちはマリアの言うことを信じようとはしませんでした。「小さな村へと旅していたふたりの弟子たち」が、ルカによる福音書24章(13~35節)に語られている「エマオへの道を歩んでいたふたりの弟子たち」と同一であるのはまちがいありません。イエス様が11人の弟子たちにあらわれたことは、多くの聖書の箇所に記されています。また、こうした出来事が何度も繰り返し起きたのも確かです(コリントの信徒への第1の手紙15章1~11節、ヨハネによる福音書20章19~29節)。興味深いのは、イエス様が弟子たちの前に御自分をあらわされたことを語っている記事はこれで全部というわけではない、ということです。マルコによる福音書よりももっと古い伝承に基づいている多くのそのような出来事が、リストには欠けているのです。私たちはとりわけいくつかの出来事についてもっと知りたいという思いがあります。たとえば、復活された主は、どのようにペテロや御自分の兄弟であるヤコブにあらわれたり、どのように500人以上の弟子たちに同時に姿をお見せになったりしたのでしょうか(コリントの信徒への第1の手紙15章5~7節)。私たちの好奇心が満たされることはありません。復活の主を目の当たりにした証人はたくさんおり、不信仰な臆病者だった者たちが、死に至るまで主に忠実をつらぬいた伝道者に変わったこと自体が、彼らの確信が揺るぎのないものであったことを十二分に証明しています。「復活の主への信仰」は常に聖霊様の賜物であって、理性で考えた結果などではない、と私たちは信じています。