2009年11月6日金曜日

マルコによる福音書について 16章1~8節

全世界に

マルコによる福音書16章


まったくの驚き 16章1~8節
イエス様が墓に葬られたとき、イエス様のはじめられた運動は完全におわってしまったかのようにみえました。イエス様は死に、弟子たちは逃げ去り、敵が勝ったのです。あとに残っていたのは、死者に対して行わなければならない愛情のこもった仕事でした。それを行うために女たちが墓へとやってきました。痛めつけられたイエス様の体は金曜日の夕方に大急ぎで墓に入れられたので、それに埋葬の仕上げを施すことができていませんでした。そのときには太陽が沈みかけていたし、安息日がはじまろうとしていたからです。安息日にはこの仕事をすることは許されてはいなかったので、女たちはようやく日曜日の早朝になってから墓へ行くことができました。彼らは一刻も無駄にせず、朝の薄暗いときにはすでに墓へ来ていました。何かが金曜日とは変わっていることに、女たちはふと気づきました。墓の入り口をふさいでいた重い大きな石が取り除けられていたのです。墓の中にはイエス様の死体はありませんでした。そこにいたのは、主が死者の中からよみがえったことを告げる天使でした。女たちはこのメッセージをペテロやほかの弟子たちに伝える役目を与えられました。不意をつかれて困惑している女たちは、わけもわからないまま墓から出て行きました。そのときには彼らは何をどう考えればよいのかさえ、わからなかったのです。やっとあとになってから、「イエス様のもの」である信仰者たちにはこの出来事の意味をゆっくり考える時間がありました。復活なさった主御自身がこのことを手に取るようにわかりやすく説明してくださったのです。キーワードはここでも「イエス様の権威」です。イエス様が本当はどのようなお方かしろうとして周りに集まった人たちは、いろいろな質問をイエス様に投げかけました。人々にそのような気を起こさせるようなやり方で、イエス様は登場され振舞われたのです(たとえば4章41節、6章2節)。マルコによる福音書の読者はその答えを1章のはじめからしっています。「イエス様は神様の愛する独り子であり、お父様の与えてくださった使命を実現するためにこの世に来られた」ということです(1章11節)。これと同じメッセージは輝く山でも一瞬告げられました(9章7節)。しかしそれは人々の目からは隠されていました。キリストの真のお姿が大議会の前であきらかにされたとき、大祭司は自分の服を引き裂き、イエス様は神様を侮辱する者として死刑の判決を受けました。しかし、今、神様はイエス様を死者の中からよみがえらせてくださいました。これは、「イエス様には生前話されていた御自分の「権威」を実際におもちだった」という驚くべきことを意味しています。このように、イエス様の復活は人々の不信仰を徹底的に恥じ入らせたのです。イエス様は御自分で言われていたとおりのお方でした。しかし、私たちは2千年前に起きた奇跡を不思議に思うだけで済ませるわけにはいきません。復活は、私たち皆ひとりひとりにとって身近なことがらなのです。イエス様のこの地上での人生には、はっきりとした目的がありました。イエス様は御自分の使命を完璧に成就なさいました。イエス様はイザヤ書が予言した「主の苦難の僕」(53章)であり、すべての人々の罪を代わりに担うためにこの世に来られたのです。イエス様も弟子たちに御自分の使命についてこのように説明なさいました(マルコによる福音書10章35~45節)。ここでイエス様が十字架上で引用された詩篇22篇をもう一度読んで、とくにそのおわりの部分に焦点を当ててみましょう。主の苦難の僕は屈辱を受け、神様はその僕を「死の塵に伏させました」(詩篇22篇16節)。にもかかわらず、主はその僕から遠く離れたままではおらず、僕を助けるためにやってこられました。復活したキリストは神様に賛美の歌を歌います。この歌には神様の民全体と地の果てのすべての者が加わります。こうして、キリストの死と復活において世界の歴史全体が転換します。