2010年5月31日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章21~33節

         
5章21~33節 「家訓」の部のはじまり
               
新約聖書には、さまざまな人生の状況の中に生きているクリスチャンに対して、単純で実際的な指示が与えられています。
マルティン・ルターがこれらの指示を「小教理問答書」に取り入れた後、それらは「家訓」と呼ばれるようになりました。
それらは、家族の成員ひとりひとりに与えられた指示を記した「掛け軸」のようなものです。
ここでは、信仰が日常生活の中で実際的な形を取っています。
        
最初の指示は、教会に属する妻たちに対してのものです。
イエス様に弟子として従っていた者たちの中には、男も女もいました。
ラザロとマルタの姉妹マリアは立派な弟子でした。
この、ユダヤ人の信仰生活からずれたイエス様のやり方は、途切れることなく、初代教会でも継続されました。
しかし、イエス様が家族をばらばらに引き離すのではなく、刷新なさったのと同様に、初代教会においても男と女の教会での使命は同一ではありませんでした。
それゆえ、妻は夫の下に留まるように、と勧められているのです。
          
夫に対する「家訓」の指示は、聖書の他の箇所にも広くあらわれている教えに関係しています。
すなわち、最善の場合、結婚はより大きな真理を反映しているのです。
清く心のこもった無私の愛は、「キリストが御自分の花嫁なる教会のために御自分を犠牲としてささげられた」というイメージを喚起します。
このように、神様の民はキリストの死と聖なる洗礼の水とによって聖別されているのですから、彼らは神様の御前でまったく傷のない清く聖なる存在なのです。
キリストの教会は聖です。
しかし、その聖さは教会員たちの聖さではなく、キリストが賜った聖さなのです。
そして、この偉大な愛が、夫ひとりひとりに対して、従うべき模範として与えられているのです。
               
神様の創造の目的がどうすれば私たちの家族の中で実現するか、私たちはよく考えてみなければなりません。
まず、聖書によれば「誰かの下に立つ」というのは悪いことではない、と理解するのが肝要です。
キリストは自ら下に立たれます。聖霊様は預言者に対して自ら下に立たれます。
罪人の私たちには、これは難しいことです。
聖書が意味している「下に立つ」とは、わざと謙遜に振舞うということではありません。
家族を自分の「下に置く」のもよくありません。
そうした態度は逆に祈りが聴かれるのを妨げてしまいます(ペテロの第1の手紙3章7節)。
家庭の父親には大きな責任と使命がゆだねられています。
キリストが彼の模範でなければ、誰もそれを実行することはできません。

2010年5月26日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章6~20節 

5章6~20節 この箇所は、「間違った生活を送っている者」をさしていますか。それとも、「間違ったことを教えている者」をさしていますか?

「エフェソの信徒への手紙」は、よりいっそう厳しい警告を続けます。
たとえば、「愚かな話」をする者たちとは何も一緒に行ってはならないのです。
ここで問題になっているのが、「間違った生活」についてか、あるいは、「間違った教え」についてか、見分けるのは容易なことではありません。
これは解釈者によって説明が異なる箇所です。
今問題となっているのが、「ある行いが罪かどうかなどはどうでもよく、人に罪をおかさないように警告する必要もない」などと教えている者たちのことだ、とは言えるでしょう。
初代教会の頃には、このように教えていた者が大勢いました。
彼らは自分の考えをさまざまなやり方で正当化しようとしました。
コリントの教会では、すさまじい霊的志向と節制のない肉欲とが、理解を絶するやり方で、一体化していました。
コリントの信徒たちに対しても、前にあげたような人たちとは何も一緒にやらないように、という指示が与えれていました。
ただし、この指示は、「実生活で自分の信仰を無視しているクリスチャン」についてのみ当てはまり、いわゆる「この世の人々」に対しては適用されない、という留保が付いています。
グノーシス主義者たちは、「人間の魂が肉体の牢獄ではなく栄光に属している」という「知識」に基づき、肉体に峻酷な節制を課したり、逆に完全な自由を与えたりしました。[1]
「エフェソの信徒への手紙」は、「このようなメッセージに気をつけるように」、と厳しく警告しています。
    
光の子は光の子にふさわしく生きるものです。
ヨハネの第1の手紙1章を読んでみてください。
ここで、「エフェソの信徒への手紙」の初めの部分を思い出してみることにしましょう。
最初の3章では、クリスチャンはいかに生きるべきか、については何も言われていません。
それらの章では、天国への道、義認について、手紙は的をしぼって語りました。
それに対して、この第5章は「聖化」を非常に強調しています。
これからわかるのは、義認と聖化は信仰生活の中心的なことがらであり、そのどちらも忘れてはならないものだ、ということです。
ただし、それらの相互関係は常に正しく位置づけられなければなりません。
まずはじめに、罪人がキリストの十字架のみわざのゆえに義と認められ、そしてそのあとに、その結果として聖化が来るのです。

[1] 「おもに正統キリスト教を攻撃した秘教的な宗教運動。最盛期は2~3世紀。ほとんどの宗派が、キリスト教を自称しているが、初期の教会の信仰とはかけはなれていた。グノーシスという名称は、ギリシャ語で「知識」を意味する。 グノーシス主義の信奉者は、この思想によって神の国のかくれた知識があたえられると信じていた。最高神の火花や種子が、至高の世界から悪の支配する物質界に転落し、人間の体にとじこめられた。人間の内にあるこの神的要素は、知識によってふたたびめざめ、至高の精神的世界にある元の場所にかえることができるとする。(・・・)グノーシス主義の本質は二元論である。それは、人間をまどわせ抑圧する邪悪な世界から、人間の内にある魂を解放しなければならないという思想である。 」(http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761564139/content.html)

2010年5月24日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章1~5節 その2

      
5章1~5節 神様に倣う者たち!その2
       
実は、今取り扱っている考えの中には、なぜ多くの他宗教を代表する人物や無神論者がイエス様について驚くほど美しく語ることができるのか、という疑問への答えがあります。
イエス様は多くの人にとって模範となっている、というわけです。
しかし、私たちにとってイエス様は、まず第一に「賜物」であり、それから次に「模範」でもあるのです。
      
ふたつの罪が聖書では絶えず大問題として取り上げられています。
それらは、性に関する罪と、貪欲に関する罪です。性に関する罪とは、結婚生活の外部でのあらゆる性的関係です(ギリシア語で「ポルネイア」と言います)。
また、性に関係するみだらな話も罪です。
        
はじめに驚くべきことは、聖書の御言葉にもかかわらず、同棲やその他の結婚の外部での性的関係がクリスチャンの間でも一般に広まってきて、教会の職員の中にさえもそのようなことを行う者がいる、ということです。
それに加えて、クリスチャンはひとりひとり、性に関わる自分の話の内容を見つめなおしてみるべきです。
         
もうひとつ私たちにとって重大なことは、貪欲は絶対的に罪として裁かれるということです。
貪欲は偶像礼拝と呼ばれています。
そして、貪欲な者は永遠の命にあずかることができない、と言われています。
            

2010年5月21日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章1~5節 その1

5章1~5節 神様に倣う者たち!その1
   
直訳すれば、1節でパウロは「神様を倣う者になりなさい」と言っています。
これはとても含蓄のある表現です。
見たこともない神様を人はどのように模範とすることができるのか、などと今深刻に考えるのは意味がありません。
ここでは、目に見えない神様の偉大さを模範とすることが問題なのではありません。
新約聖書のほかの箇所ではしばしば、キリストは「キリストのもの」にとって従うべき模範である、という指示があらわれます。
たとえば、ヨハネによる福音書13章、フィリピの信徒への手紙2章などです。
         
しかし、「キリストを模範として生きる」とはどういう意味でしょうか。
キリスト教会の歴史の中では、アッシジのフランシスコのように、自分の財産を捨て、本気でキリストを模範として生きようとした人たちがいました。
ところが、今「エフェソの信徒への手紙」で紹介されている教えは、それとはまったく異なるものです。
4章32節から5章の2節までの箇所が、このことをはっきり示してくれます。
           
「互いに役立とうとする、同情心あふれる者となり、神様がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。
こうして、あなたがたは、神様に愛されている子供として、神様に倣う者になりなさい。
また、愛のうちを歩みなさい。
キリストもあなたがたを愛してくださって、私たちのために御自身を神様へのかぐわしい香りの捧げ物、また、犠牲として捧げられたのです。」
(「エフェソの信徒への手紙4章32節~5章2節」)
          
たとえば、「キリストに従って荒野に向かう」という考えは、すばらしいものに感じられるかもしれませんが、ここで言われているのは、まったく別のことです。
つまり、「キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも隣人を愛さなければならない」ということを通して、「主キリストに従う」ということです。
(神様の)愛から愛が生まれます。
2節は、旧約聖書の犠牲の捧げ物に関する用語を用いながら、キリストの犠牲の捧げ物の意味を説明しています。
         

2010年5月19日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章

     
花嫁が受け取る手紙
        

エフェソの信徒への手紙 第5章
          
神様を賛美する美しい「エフェソの信徒への手紙」は、前回扱った第4章で、クリスチャンの生き方についての指示を与えています。
この指示の部分は手紙の終わりまで続きます。先を読めば読むほど、それに応じて指示はしだいに細かくなっていきます。
このように、道は、神様の愛に驚くことから、日常生活へと向かっていきます。
この順序をはっきりと心に入れておかなければなりません。
    
まずはじめに神様の恵みと愛が来ます。
それから、それらが人の心をつかんだ後で、
その結果として、
クリスチャンにふさわしい生活、すなわち聖化がはじまるのです。

2010年5月17日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第4回目の終わりのメッセージ 

第4回目の集まりのためのおわりのメッセージ

「あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい。」(ルカによる福音書10章20節)
       
キリストはこの御言葉を、神様の力によって今キリストを信じている私たちに対しても、言われています。
私たちの主御自身が、私たちの名前が天に記されていることを喜ぶようにと、私たちに命じておられるのです。
私たちの名前がどこに記されているか、私たちは知っています。
紙でも本でもなく石にでもありません。
そうではなく、私たちの大祭司、イエス様の心に記されているのです。
「出エジプト記」28章29節を読んでみてください。
私たちにとって、これは喜ばしいことではないでしょうか。
もちろん、そうです!
       
確かにこの世では、私たちには多くの嘆きと苦しみがあります。
この世では、罪と自分の惨めな状態とが私たちの心を圧迫してきます。
この世では、律法が私たちをおびやかし、恐れさせます。
この世では、知者や聖者が私たちを異端であると非難し、あざけります。
この世では、しばしば悪魔が私たちを選り分け、試み、窮地に追いやります。
さらには、死と地獄も私たちを飲み込もうと襲ってきます。
しかし、私たちのもとで、「あなた、小さい群れよ、恐れてはいけない!」と、すでに天にのぼられ今御父の右にお座りになっている私たちの主、永遠の大祭司、イエス様が叫んでおられます。
         
イエス様はこう言われます。
      
「恐れてはいけない。あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい。
私はあなたがたを自分の手に記しました。
あなたがたは私の心の中にいます。
だから、私はあなたがたを永久に忘れることはありません」。
        
これが私たちの大祭司、私たちの羊飼いが話しかけてくださる声です。
この声を私たちは知っており(ヨハネによる福音書10章)、これに従い、信頼しています。
        
確かにこの世では、安全なことは何もなく、私たちの主、羊飼い、大祭司はすでに私たちを忘れ見捨ててしまったかのように感じられることがしばしばあります。
        
イザヤ書の49章14節を読んでみてください。
この世と天では状況がまったく異なっています。
天では、私たちはよい安全な場所、私たちの大祭司の忠実な心の中にいます。
誰が私たちをそこから閉め出したり奪い去ることができるというのでしょうか。
         
「誰も彼らを私の手から奪い去ることはできません!」と、私たちの主御自身が叫んでおられます(ヨハネによる福音書10章28節)。
ましてや、キリストの心から私たちを奪い去ることなど誰にもできはしません!
ここには疑いの余地などありません。
なぜなら、私たちは愛するキリストの心に記されているからです。
キリストを信じており、キリストにあずかるように洗礼を受けている私たち皆がそうなのです。
私たちは皆、同じ心の中にいます。
それゆえ、私たちは互いに分け隔てられてはおらず、自分で自分を分け隔てるべきでもありません。そうではなく、キリストの愛によって信仰の兄弟姉妹として互いに愛し合うようにひとつとなるべきなのです。
         
聖霊様が私たちに忠告しておられるように、私たちは信仰を保つように互いに支え合いましょう。
キリストがまずはじめに私たちに示してくださり、また今も示しつづけてくださっているように、私たちもまた、お互いに愛とよい行いを示すように、努力しようではありませんか。
        
(F.G.ヘドベルグ 「命の言葉」より)
       

2010年5月7日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」第4回目の質問

       
第4回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第4章
    
唯一なる神様を信じる者たちは心が一つでなければなりません。
クリスチャンはどのような神様をもっているか、彼らの生活の中で見えてこなければなりません。
それによって、他の人も信じるようになるためです。
          
1)どうして「エフェソの信徒への手紙」はクリスチャンの生き方について、第1章ではなく、ようやく第4章になってから語り始めるのでしょうか。
     
2)この章は教会の職制に就いているクリスチャンについても、また平信徒のクリスチャンについても、語っています。
    
a) 11節によれば、どうして私たちクリスチャンに、教会におけるさまざまな職制が与えられているのでしょうか。
教会の職員は何のために必要ですか。
また、どのように彼らを支えることができるでしょうか。
           
b) 教会の職員が今行っている仕事のうち、職員以外の平信徒でも同じように実行できる仕事は何でしょうか。
私たち一般の会員は宗教的なサービスを消費する「お客」などではなく、「キリストのもの」であり、キリストを代表する者です。
教会で私たちはどうすればよりよく活動できるのでしょうか。
泳ぐのを学ぶためには、泳ぐしかありません。
やってみもせずに、このことを学ぶことができるでしょうか。
         
3)自由な考え方をするグループや異端のグループ(エホバの証人やモルモン教徒など)では、会員一人一人がゆきとどいた「教育」を受けます。
彼らと話し合う機会があった人に尋ねますが、あなたがたは、どのように彼らに対して受け答えすることができましたか。
どうすれば、私たちはよりよく対応できる活動的なクリスチャンになれるのでしょうか。
            
4)17~19節によれば、異邦人たちの生き方には基本的に欠けているものがあります。
それは何ですか。
         
5)良心が麻痺しないようにするためには、どうすればよいのでしょう。
麻痺してしまった良心にふたたび感覚を取り戻させるためには、どうすればよいですか。
          
6)私たちは互いに諭し合うことを遠慮していますか。
神様の御言葉がクリスチャンを支配している、ということは私たちにとって自明ではないのでしょうか。

2010年5月5日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章25~32節 

新しい生き方のための指針 4章25~32節

ようやく具体的な指針を明示する時が来ました。
実は、それらについてはとくに説明する必要がありません。
これらの指針の内容は、ユダヤ人たちにとってはさほど目新しいものではない、というのが多くの研究者の意見です。
この箇所は倫理的に自明なことを取り扱っている、とみなす人もいるほどです。
それはその通りだろうし、あとやるべきなのは、これらの戒めに実際に従いながら生きることです。
実はそのときに、真の困難がはじまるのです。
いくつかの細部にここでふれておくのは、意味があるでしょう。
      
26節は「怒ること」を容認しているわけではありません。
「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりません」というのが、この箇所の直訳です。
この御言葉の背景にある詩篇4篇5節は説明が難しい箇所です。
その考えは意図的に意表をつくような謎を秘めています。
「罪をおかさずに、いったい誰が怒ることができると言うのだろうか」という意味ではないでしょうか。クムランのユダヤ人グループの中には、(信仰の)兄弟に対して怒ることは禁じられていました。
とりわけ、イエス様は「隣人に怒ることは隣人愛でもなんでもない」ということを示してくださいました(マタイによる福音書5章22節以降)。
クムランで仙人のような生活を送っていた者たちが自分の怒りの感情を否定したといって、それが、純正な愛をもたらしたとは限りません。
それはちょうど、現代のクリスチャンが自分の怒りをみせかけの義人の「衣装」で包み隠しているのと同じようなものです。
ここで基本的な問題であるのは、「私たちは自分の怒りのかわりに、純正な愛を必要としている」ということです。
このことを考えるとき、せめて「太陽が沈んでもまだ怒りつづけることがない」ように、私たちは努力するべきではないでしょうか。
そうすれば、悪魔が私たちの内向した怒りの根につけこんで、それを拡大して大災害を生むような隙をつかれたりはしません。
聖書のこれらの御言葉は、クリスチャンの間でも絶えず破られています。
最悪の場合には、その怒りを誇示することさえあります。
         
もうひとつここで取り上げたいのは、クリスチャンの言葉がいかに重い意味を持っているか、ということです。
私たちが互いに対してどのように話しているかは、どうでもよいようなことではないのです。 
私たちは、まさに言葉によって人をひどく傷つけ、神様の民がかつて落ち込んだのと同じ罪をおかしてしまいます。
すなわち、聖霊様を嘆き悲しませることになるのです(イザヤ書63章10節)。
聖霊様は敏感な霊であり、うそをついたり、悪口を言ったり、争いを巻き起こしたりするところには、滞在されることを好まれない、ということを覚えておくべきでしょう。
     

2010年5月3日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章17~24節

   
  
古い人と新しい人 4章17~24節
       
パウロは、クリスチャンにふさわしい生き方について語るとき、その具体的な指示を与える前に、彼の他の手紙でもくりかえし書かれているような基本的なパターンを、まずここでも復習しています。
それを彼は、短く美しく表現しています。
「古い人」と「新しい人」という一組の言葉がその教えの基本にあります。
これらの言葉は「肉」と「霊」という言葉でほとんど置き換えることができます。
これからわかるのは、クリスチャンの生き方の背景には、救いについての教えがあるということです。それゆえ、パウロは、まず異邦人たちの希望のない状態について語ることからはじめているのです。
      
異邦人は、どれほど自分の力に頼ってみても、依然として神様の怒りの下にあり、希望なく生きています。
「ローマの信徒への手紙」の第1章のように、パウロは、いかに異邦人が活きておられる神様に対して背を向け、心をかたくなにし、こうして罪の深い泥沼に沈んでしまったか、について語ります。
これが私たちの「古い人」あるいは「肉」と呼ばれるものであり、つまり、私たちが自身の力に頼ってキリストなしに神様の御前に出ている状態です。
神様の救いのみわざは、私たちを死者の中から復活させ、新しい命へと生み、私たちの中に「新しい人」あるいは「霊」を与えてくれました。
それは、私たちが神様の子供になった、ということを意味しています。
         
今パウロは教えます。
クリスチャンの生活はこの基本のパターンを実行するために絶えず努力していくことにほかなりません。
私たちの使命は、脱ぎ去り、また、着ることです。
自分の「古い人」と「肉の行い」を脱ぎ去り、「新しい人」と「霊のみわざ」を着ることです。
これは、キリストに日々まじめに従いつづけることであり、自分自身の肉を殺しつづけることでもあります。
あるいは、ルターの言い方を借りるなら、古い人を聖なる洗礼の水の中で日々溺死させることです。これとまったく同じ教えが「コロサイの信徒への手紙」にも登場します。
「ローマの信徒への手紙」の第6章にもそれと似た教えがあります。