2014年10月8日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章 はじめに(その1)

洗礼と聖め

「ローマの信徒への手紙」6

はじめに(その1)


パウロは5章を、次のような素晴らしい福音の言葉で閉じます、
「罪が大きくなったところでは、恵みも満ちあふれるものとなりました」
520節)。

神様の律法が私たちの心に触れる時、
私たちは神様の御前で、罰せられるのが当然の罪人である、
という自覚を与えられます。

聖書にもあるように、神様は、
親が悪いことを行った場合、
しかも、その子孫に当たる者たちが神様を憎んでいる場合には、
彼らに対して、
その親の悪行にゆえに何代にもわたって罰を加えられる方です。

しかし、その一方で、福音は、
キリストの十字架を私たちに思い起こさせ、罪の赦しについて語ります。
こうして、地獄と神様の怒りとは脇に退きます。
そして、その後に残るのは、
私たち罪深い者に対する、神様の燃えるような愛だけになります。

「私は、主、あなたの神、熱情の神であるから、
父たちの罪について、私を憎むその子たちに対して
三代、四代にわたって罰を与えます。
しかし、私を愛し、私の戒めを守る者たちに対しては、
千代に至るまで恵みを施します」(「出エジプト記」2056節より)、
と書いてある通りです。

2014年10月3日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(5章)


終わりのメッセージ(5章)

古いアダムはあいもかわらず

古いアダムは断食についての話を耳にしました。
彼はフッと笑って、慣れた素振りで身をかわしました。
そして、またしても傷を負わずに済みました。
しかもその際、彼はキリスト教的に見える理由を持ち出したのです。

キリストの復活を祝するイースターに先立つ時期である受難節は、
「断食の時期」とも呼ばれます。
十分な栄養が摂取できない時代に、
断食はイエス様や使徒たちや他のキリスト信仰者たちにとって必要なことでした。

「でも、高い生活水準の世界に住んでいる私には関係のない話だね」
(アダム)。

十字架にかかったイエス様は渇いた口で、「私は渇く」、と言われました。

「でも、私がコーヒーを飲む習慣については、誰にも文句なんか言わせないぞ」
(アダム)。

イエス様が大祭司の尋問を受けていた時には、鶏の鳴く声が唯一の音楽でした。

「ステレオでお願いね」(アダム)。

救い主は、あざけられ暴力を受ける前に、みすぼらしい衣を着せられました。

「今流行の服以外を着るなんて、考えられない」(アダム)。

朝早く聖書を読むのは、もちろんよいことです。

「ありがとう。でも、新聞の方がもっと興味深い」(アダム)。

イエス様は自分を捕らえに来た敵対者たちに向かって、落ち着いて話されました。

「私が呪いの言葉をぶつける相手は、そうされるのが当然の奴らなのさ」
(アダム)。

必要とする人々に自分のお金を定期的に分け与えるのは、道理にかなっています。

「自分が心から喜んでお金をあげられるようになる日を待つとしよう」
(アダム)。

どうして、ほかでもない私が節制して生きて行かなければならないのでしょうか。

「私は恵みによって救われているんだからさあ(そんなこと必要ないよね)」
(アダム)。

レイノ ハッシネン(一部変更しました。訳者)

2014年9月26日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第5回目の質問


5回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」5


パウロは、
アブラハムが信仰を通して神様に受け入れていただけたことを示した後で、
私たちが信仰の義を通して神様との平和をいただいており、
死の支配下から命の支配下へと移っている、
と断言しました。
これは、苦しみが終わるという意味ではなく、
キリストにあって命をいただく、という意味です。

1)パウロは、苦しみを誇る、と言っています。
これは、多くの人々の考え方とは正反対の考え方です。
パウロはこれによって何を意味しているのでしょうか。
苦しみや困難の只中にいる時に、私たちは感謝することができるでしょうか。
また、どのように感謝できるようになるのでしょうか。

2)神様の愛は、
本来ならそれをいただく資格が無いはずの人々に対して向けられている、
とパウロは強調します。
福音のこの考え方を、私たちは自分に対しても当てはめることができますか。

3)本来ならいただけるはずのない神様の愛が、私たちに向けられています。
ところで、私たちもまた、
この愛を他の人たちに分け与えていくことができるでしょうか。

「あなたがたは、自分を愛してくれる者を愛したとしても、
どれほどの感謝に値しましょうか。
罪深い人でさえ、自分を愛してくれる者のことを愛しているでしょう。
自分によくしてくれる者によくしたとしても、
どれほどの感謝に値しましょうか。
罪深い人でさえ、同じことをしているでしょう
(「ルカによる福音書」63233節)、
というイエス様の御言葉を参照してください。


4)パウロによれば、
一人の人間(アダム)を通して、死はこの世に入ってきました。
罪に対する罰として、すべての人が死ぬようになったのです。
小さな子どもも罪深い存在であり、
それゆえ、生まれたばかりであっても、
神様の御業である洗礼を必要としている、
ということを説明するために、何か別の根拠が必要でしょうか。

2014年9月19日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 5章12〜21節 二人のアダム(その4)


 
二人のアダム 51221節(その4)
 
 
この箇所を閉じるにあたり、
パウロは、律法の意味を巡る問題に解答を与えます。

キリストのゆえに罪が赦されるのなら、
なぜそれに加えて、モーセの律法や神様の戒めが必要とされたのか、
という問題に対する答えは明瞭です。

律法の目的は、罪を重大なものとして提示することでした。
人々を責め、良心の呵責へと導き、神様の御前で罪深い存在にする、
というのが、今も変わらない律法の使命なのです。

しかし一方では、律法によって、
誰一人、絶望へと追いやられてしまわないように
注意しなければなりません。
そして、
この自分自身への絶望から私たちを守ってくれるのが、
キリストの恵みなのです。

自分の弱さと罪深さを知っている人たちがいるところなら
どこであっても、
律法はその役割をすでに果たしています。
その時点で必要なことは、
律法によって罪人としての自覚をもった人たちに対して、
神様の愛の素晴らしさを伝えることです。

たとえ私たちの罪がどれほどひどいものであったとしても、
キリストの十字架は、
それらすべての罪が要求する罰という負債を
十分に返済する力を持っています。

「罪が大きくなったところでは、
恵みも満ちあふれるものとなりました」
520節)、と聖書は教えています。

この御言葉が該当しなくなるほど絶望的なケースは存在しません。
人間が多くの悪い行いをすることは確かにありえます。
しかし、
キリストの十字架の血によって贖えなくなるようなことは、
決して起こりません。