第5回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」5章
パウロは、
アブラハムが信仰を通して神様に受け入れていただけたことを示した後で、
私たちが信仰の義を通して神様との平和をいただいており、
死の支配下から命の支配下へと移っている、
と断言しました。
これは、苦しみが終わるという意味ではなく、
キリストにあって命をいただく、という意味です。
1)パウロは、苦しみを誇る、と言っています。
これは、多くの人々の考え方とは正反対の考え方です。
パウロはこれによって何を意味しているのでしょうか。
苦しみや困難の只中にいる時に、私たちは感謝することができるでしょうか。
また、どのように感謝できるようになるのでしょうか。
2)神様の愛は、
本来ならそれをいただく資格が無いはずの人々に対して向けられている、
とパウロは強調します。
福音のこの考え方を、私たちは自分に対しても当てはめることができますか。
3)本来ならいただけるはずのない神様の愛が、私たちに向けられています。
ところで、私たちもまた、
この愛を他の人たちに分け与えていくことができるでしょうか。
「あなたがたは、自分を愛してくれる者を愛したとしても、
どれほどの感謝に値しましょうか。
罪深い人でさえ、自分を愛してくれる者のことを愛しているでしょう。
自分によくしてくれる者によくしたとしても、
どれほどの感謝に値しましょうか。
罪深い人でさえ、同じことをしているでしょう」
(「ルカによる福音書」6章32〜33節)、
というイエス様の御言葉を参照してください。
4)パウロによれば、
一人の人間(アダム)を通して、死はこの世に入ってきました。
罪に対する罰として、すべての人が死ぬようになったのです。
小さな子どもも罪深い存在であり、
それゆえ、生まれたばかりであっても、
神様の御業である洗礼を必要としている、
ということを説明するために、何か別の根拠が必要でしょうか。