2014年9月19日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 5章12〜21節 二人のアダム(その4)


 
二人のアダム 51221節(その4)
 
 
この箇所を閉じるにあたり、
パウロは、律法の意味を巡る問題に解答を与えます。

キリストのゆえに罪が赦されるのなら、
なぜそれに加えて、モーセの律法や神様の戒めが必要とされたのか、
という問題に対する答えは明瞭です。

律法の目的は、罪を重大なものとして提示することでした。
人々を責め、良心の呵責へと導き、神様の御前で罪深い存在にする、
というのが、今も変わらない律法の使命なのです。

しかし一方では、律法によって、
誰一人、絶望へと追いやられてしまわないように
注意しなければなりません。
そして、
この自分自身への絶望から私たちを守ってくれるのが、
キリストの恵みなのです。

自分の弱さと罪深さを知っている人たちがいるところなら
どこであっても、
律法はその役割をすでに果たしています。
その時点で必要なことは、
律法によって罪人としての自覚をもった人たちに対して、
神様の愛の素晴らしさを伝えることです。

たとえ私たちの罪がどれほどひどいものであったとしても、
キリストの十字架は、
それらすべての罪が要求する罰という負債を
十分に返済する力を持っています。

「罪が大きくなったところでは、
恵みも満ちあふれるものとなりました」
520節)、と聖書は教えています。

この御言葉が該当しなくなるほど絶望的なケースは存在しません。
人間が多くの悪い行いをすることは確かにありえます。
しかし、
キリストの十字架の血によって贖えなくなるようなことは、
決して起こりません。