2013年9月18日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 16章4b~16節(その2)



164b~16節(その2)


聖霊様のみわざについての教えは、
私たちルター派のキリスト信仰者にとって愛着のある、
大切な信条のひとつです。
人間自身の行いや努力が 結果を最終的に左右する、
と考える信者のグループがあります。
人間に必要なのは、
自分自身で信仰の決断をすることと、
神様の御許に留まりつづける能力だ、
というのです。
ルター派のキリスト信仰者は、
「使徒信条」の中の聖霊様についての信条について、
次のように告白します、
「私は、自分の力では
主イエス・キリストを信じることができず、
その御許に行くこともできません。
聖霊様が私を、福音を通して招いてくださったのです。
このことを私は信じます」。
こう言うときに、私たちは
神様の招きを傲慢に拒もうとはせず、
逆にへりくだって、
「もしも神様が御霊によって私のことを
「御自分のもの」とみなしてくださるのでなければ、
私には信仰者になる力も、
一日たりとも正しい信仰に留まる力もありません」、
と告白していることになります。
このようにして、
人間の弱さを知っているキリスト信仰者が
安らぎを得ることができるのはよいことです。

2013年9月16日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 16章4b~16節(その1)


聖霊様のなさること

「ヨハネによる福音書」16


164b~16節(その1)

前回扱った16章のはじめの数節で、イエス様は、
御自分に属する人々に対して悪魔が仕掛けてくる
憎悪と迫害について説明なさいました。
流血の事態になります。
盲目にも人々は、
イエス様に属する者たちを憎しみの対象にすることで、
神に仕えていると思い込んでいます。
このことに関連して、イエス様はこう言われます、
「今まで私は、あなたがたにこのことを話しませんでした。
なぜなら、私があなたがたと共にいたからです」。
御自分に属する人々をこの世に残して、
イエス様は立ち去ろうとしています。
この世の暗闇と悪行について、誰よりもよくイエス様はご存知です。
一方で、
教会はぽつんと残されるのではなく、
聖霊様がそれを支え守ってくださる、
という約束を、イエス様は与えてくださいます。
聖霊様は活きて働かれる神様の御霊であり、
苦しみを受ける教会を正しい真理に導いてくださる方です。

聖霊様は、聖なる神様の御前でこの世を罪に定めます。
聖霊様が罪と義と裁きについて真理を明らかに示す時、
世は罪に定められるのです。
この時、教会が迫害を受け、世が自己満足に浸って狂乱している中でも、
少なくとも誰かしらは、この世の側を離れてイエス様の側につき、
次のことを理解するようになります。
1)ここで言う罪とは、罪一般のことではなく、
イエス様の十字架を自分には関係ないものとみなして
拒絶することだということ、
2)イエス様は、神様を侮蔑する罪人などではなく、
天のお父様の御許に帰られた、義なる神様の御子であること、
3)神様の御子の十字架の勝利によって、
悪魔はその権威を失うという裁きをすでに受けていること、
です。
このようにして、聖霊様は、
キリストの御許へと人々を導き、
キリストのみわざの栄光をはっきり示してくださいます。

2013年9月13日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第15回目の終わりのメッセージ



終わりのメッセージ

主は愛する者に選伐を施される


植物を植えて、水をやり、世話をすることに、
無上の喜びを見出す人々がいます。
私は久しく植物の栽培に特に興味がありませんでした。
しかし、ある時からこの趣味を少しばかり始めました。
もう昔のことですが、息子たちと一緒に薬草を鉢に植えました。
小さい子も大きい子も一様に栽培に夢中になる様子は、
傍らから見ていて感動的なものがありました。
種から芽が出て、小さな苗が育ち、葉をつけます。
それに水をやり、光に当ててやり、もっと大きな鉢に植え替え、
できるかぎり面倒を見てあげます。

ところで、植物の世話は、私の父の一番好きな趣味だったと思います。
何十年もの経験の蓄積によって、父は大切な苗たちを、
私などにはとうてい理解できないやり方で取り扱うことができました。
実に様々な植物の鉢が窓際を埋め尽くしている家に私は育ちました。
家族の皆にとって最愛の植物は、 オレンジの木でした。
それを植えたのは小さい少年で、
彼は非常に若くして天の家に転居した私の兄でした。
兄は天の家へと去りましたが、オレンジの木はこの世に残りました。
そして、それは大きく立派な木に成長しました。

ある日、私が学校から帰ってくると、
兄のオレンジの木は選伐が施され、すっかり台無しになっていました。
後に残されていたのは、小さな茎の部分だけでした。
私は愕然として、何事が起きたのか、と尋ねました。
「こうしなければ、この木は死んでしまうところだったのだよ」、
と父は答えました。
オレンジの木は大切な思い出と結びついていました。
父はこの木に対する愛情から、
事情を知らない者には木をだめにするようにしか見えない
酷な手段を取らざるを得なかったのです。

「ヨハネによる福音書」でイエス様は、
御自分がぶどうの木であり、キリスト信仰者はその枝である、
と説明されました。
イエス様は一枝ごとに庭師のような世話を焼いてくださいます。
イエス様は枝の周りの余計なものを刈り取って整え、
ちゃんと実を結ぶように、
また後で刈り取られるようなことがないように、
配慮してくださいます。
この世話の仕方には、厳しすぎるとも思えるような面もあります。
すなわち、
実を結ぶ枝の周りにある余計な茎を、イエス様は刈り取られるのです。
このように、神様に属する多くの者は厳しく取り扱われます。
彼らの人生から、大切なものや大きなことが切り取られてしまいます。
例えば、大切な友人たち、自分の家族や健康などです。
私たちはそのことを理解しないし、誰も説明できません。
誰にとっても、これよりも難しい宿題はありえません。
そのような困難な状況の中にいる場合にも、人は、
「偉大な庭師は、何を刈り取り、何を残すか、
ちゃんとわきまえた上で行っている」、
という信頼を失うことなく、大らかに成長して行けるでしょうか。

「御父が私を愛されたように、私もまたあなたがたを愛しました」
(「ヨハネによる福音書」159節)。
十字架の主は、愛することに倦み疲れることがありません。
私たちが何も理解せず、途方にくれている場合であっても、
この主の愛は、決して変わることがありません。

(エルッキ コスケンニエミ、「ヨハネによる福音書」ガイドブックの著者)

2013年9月11日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第15回目の質問



「ヨハネによる福音書」151節~164

15回目の質問


イエス様はぶどうの木です。
イエス様とつながることによってのみ、人は救われます。

1)イエス様はぶどうの木について話されます。
旧約聖書のどの箇所がこの教えの背景にあるのでしょうか。

2)私たちはしばしば、
頭の知識と、真のキリスト信仰者の生活とを、
正反対なものとみなしています。
「ヨハネによる福音書」15章に基づいて、
このような考え方が正しいかどうか判断してください。

3)私たちはしばしば、
愛と、聖書に書かれている御言葉に従うこととを、
区別して考えがちです。
しかし、今イエス様はこう言われます、
「もしもあなたがたが私の戒めに従うならば、
あなたがたは私の愛の中に留まっています。
ちょうど私が天のお父様の戒めに従い、
その愛の中に留まっているのと同じように」。
この御言葉を聞いて、
あなたがたにはどのような考えが浮かびますか。

4)この世は御自分に属する人々を憎んでいる、
とイエス様は言われます。
この御言葉が明瞭に実現したのを、
いつ見たことがあるか、考えてみてください。

5)いつ教会は、最も多くの犠牲者の血を流した迫害を受けましたか。
キリスト教徒たちが今一番生きていくのが難しいのは、
どのような場所でしょうか。