2008年5月23日金曜日

クリスチャンと同性愛

エルッキ・コスケンニエミ (日本語版翻訳編集 高木賢)

1.どうしてこのテーマをとりあげるのでしょうか?

フィンランドの教会では1970年代には「同性愛」についておおむね次のように考えられていました。「私たち人間には皆、脱することが難しい独自の罪、悪い習慣があり、私たちはそれらと戦わなければならない。同性愛もまたこうした傾向のひとつである。クリスチャンは、自己の悪習がどんなものであれその悪習と戦っている他の人たちを、愛をもって支えていかなければならない。たとえば、飲酒の欲、不機嫌、貪欲、同性愛はそうした悪習である。同性愛の傾向のあるクリスチャンにとって、その傾向は努力して戦っていかなければならない事柄であり、人はそうした罪の傾向に支配されてはいけないのだ。」

しかし、1970年代以後、状況は変わりました。一般の意見は大きく変わり、もはや同性愛を罪とはみなさず、医学関係者たちも同性愛をたとえば人間の左利きと同じようなレベルで扱うようになったのです。

こうした一般の潮流と軌をひとつにして、教会の内部でも変化が起きました。たとえば、1990年代には同性愛者の学生たちの聖書研究会が活動し、教会の総会では、「教会が同性愛を異性愛と同等にみなすことを宣言すること」を要求する案が提出されたりしました。

2000年代に入り、隣のスウェーデンのルーテル教会では同性愛者同士が教会で結婚式を挙げることができるようになり、そのための式文も用意されています。また、同性愛者の結婚を司式することを拒む牧師は職を得るのが難しくなってきているようです。ここフィンランドでも教会の押し流されている方向はあきらかにスウェーデンと同じであり、そうしたことから言っても、このテーマを今取り上げることは時宜に適っています。

私たちクリスチャンのキリスト教の信仰を理解するためには、新約聖書の書かれる以前の時代に遡って問題を検討する必要があります。たとえば、古代ギリシア・ローマ文明や、とりわけ旧約聖書がどのように同性愛に対して接しているか。しかし、その前に、医学的な見地からこの問題に少し触れることにしましょう。


2.医学はどう言っていますか?

同性愛をめぐる議論を支配してきたのはいわゆるKinseyの報告書[1]です。それによると、男性のうち約4パーセント、女性のうち男性よりもやや少ない比率の人間が、同性愛の性交のみを行っている、というのです。現代ではこの報告書は厳しく批判されています。なぜなら、調査の対象となったのは一般の社会人のグループではなく、そこには犯罪の経歴のある人たちが不自然なほどの高い比率で入っていたからです。新しい研究によれば、男性のうち同性愛者は約1パーセントです。

同性愛についてははっきりした定義がありません。同性愛を異性愛と同等に扱おうとするあるグループは、当然ながらあいまいな定義を捏造します。それによると、同性愛とは、同じ性別の人間同士の互いに対する感情やファンタジーや行動のことです。そして、それらがどのように実現されようとそれが同性愛であることにはかわりがないこととされます。この「定義」は意図的に若者たちの強い友情の絆と同性愛との違いをなくそうとしています。私たちはここでは一義的な定義づけを行うことは控え、聖書は同性愛を「同性愛の性交」としてのみ捉えていることを挙げておくにとどめます。聖書は、同性愛の思想とか感情とかについては一切語っていません。

医学的な研究は同性愛の理由を説明することができずにいます。同性愛者たち自身、彼らの行動が彼らの性的な成長があるレヴェルでストップしてしまったためであるという説明をはっきりと拒絶しています。もともと生まれつきか、あるいは周りの環境の影響から、ある種の人たちは同性愛的な行動をとる傾向があります。これに加えて、すくなくともバイセクシュアル(異性愛と同性愛を両方とも行うこと)は学習の結果生じる現象である、ということを押えておくべきでしょう。このことは、バイセクシュアルという現象がどの程度一般的かは、同じ文化文明の中でも時代によってまちまちであることからもわかります。そして、ある民族の遺伝的な因子がそれほどまちまちに変化していくというのは、考えられないことです。


3.旧約聖書

よく知られているように、トーラー(モーセ5書、旧約聖書のはじめの5つの書物をさす)の同性愛に対する態度は無条件に厳しいものです。
「あなたは女と寝るように男と寝てはなりません。これは憎むべきことです。」(レビ記18章22節)
「女と寝るように男と寝る者は、両者ともに憎むべきことをしたのだから、必ず殺されなければなりません。」(レビ記20章13節)
町が滅ぼされる前に、ソドムの住民たちは、ロトのもとを訪れた神様の御使いたちに、ホモセクシュアル的な暴力を振るうために襲いかかろうとしました(創世記19章)。

多くの人は、同性愛を完全に拒絶するこうしたトーラーの姿勢を緩和するような例を旧約聖書の中から無理やり読み取ろうとしてきました。
たとえば、ダヴィデとヨナタンの間の強い友情を同性愛とみなそうとする人がいつの時代もいました。
「私の兄弟ヨナタン、あなたのため私は悲しみます。あなたは私にとって愛しい者でした。あなたが私を愛するのは世の普通のようではなく、女の愛にもまさっていました。」(サムエル記下1章26節。戦いに倒れたヨナタンを悼むダヴィデの言葉)
こうした「解釈」は、同性同士の真に深く強い友情がどれほどしばしば誤解されてきたかを物語っています。そしてこれはダヴィデやヨナタンの問題ではなくて、「解釈者」の誤謬なのです。
「旧約聖書は普通の同性愛についてではなく、カナン人たちのいろいろな宗教に付随したホモセクシュアルの職業的売春について批判しているのだ」と主張する人たちもいます。旧約聖書の同性愛に対するよく知られた嫌悪が当時の周辺世界の異教の儀式に関係していたことはまちがいありません。そうしたひどい儀式には、偶像モロクに子供を犠牲としてささげることや、男女間の猥雑な性的行動も含まれていました。
しかし、聖書の否定しているあること(同性愛)が、聖書の否定しているもうひとつ別のこと(異教の儀式)に結びついているからといって、「それゆえ、それら両方ともが許容されていて、神様の御心に適ったことである」などと結論することはもちろんできるはずがありません。

テキストを暴力的に曲解しようとはしない限り、旧約聖書が同性愛を許可したり、少なくとも同性愛を否定しないようにすることは到底不可能です。イエス様の時代のユダヤ教は当然ながらすべての点においてトーラーの規定に従っていました。資料の成立年代を決定するのは容易ではないとはいえ、少なくとも後になって文書として記録保存された伝統によれば、もしも同性愛を強制された者が12歳以上であった場合には、同性愛を行った者たちは双方とも石で打ち殺されなければなりませんでした(サンヘドリン7,4)。一方では、イエス様の時代のユダヤ人たちは同性愛と戦わなければなりませんでした(レヴィの遺言17、ナフタリの遺言4)。同性愛という現象はすでに当時存在していたのです。そして、ユダヤ教はそれを厳しく禁じ、それと戦っていたのでした。


4.ギリシア・ローマ文明

古代ギリシア世界では、人がバイセクシュアル(異性愛と同性愛の両方を行うこと)であることは非常に一般的であり、多くの場合承認された生き方でもありました。前古典期および古典期におけるギリシア(紀元前480~330年)は「男の世界」であり、そこでは同性愛は適当な生活様式でもありました。レスボス島の大女流詩人サッフォーの有名な詩はある種の性的な行動に名前を提供しました。他の多くの叙情詩人たちもまたホモセクシュアル的な愛をほめ歌っています。同性愛的な生き方にとくに重要な意味をもたせていたのはスパルタです。そこでは、若い男の子たちの年齢階層はこの「国民的な教育」とあいまって定められていました。共に戦っている者たちを結びつけていたのは、しばしばホモセクシュアル的な絆でした。アテナイでは、職業売春に基づくぺデラスティア[2]は制限されました。当時、ホモセクシュアルについて「それは自然に反した行為ではないか」という倫理的な疑問を投げかける人もいました。同性愛は新しい命の誕生を目的とするものではなく、人間を欲望の奴隷とするものであるからです(プラトン 法律1,636C)。しかし、たとえばプラトンの対話篇「饗宴」では、同性愛はまったく自然なことであるかのように取り扱われています。同性愛がどの程度の「不道徳」とみなされたかについては、ホモセクシュアルな者たちの間の三角関係から生じた喧嘩に関して、リュシアスの書いた法廷でのスピーチからうかがい知ることができます。法廷で事件の関係者は自分の欲望を審判者たちの前であきらかにしなければならなくなって少し恥ずかしくなります。しかし、そこで問題になっているのは、「自分の肉体の欲望に身を任せてよいか」という哲学者たちが警告していたことがらにすぎず、同性愛自体はさほど深刻に取り扱われてはいません。それはちょっとした悪習以上のものではなかったのです。
羊飼いの詩で有名なテオクリトスは、それから何百年か後のギリシア社会では、同性愛がすでに当たり前のこととみなされていたことを証拠立てています。

ローマ文明の黎明期に生きた喜劇作家プラウトゥス(紀元前254年頃~約184年頃)は同時代の民衆の言葉を用い、彼らの生き方や考え方を作品に反映させています。彼はまだ同性愛を「ギリシア人の慣習」と呼んでいます。
しかし、それから約百年後には状況がまったく変わっていました。大詩人の中ではカトゥッルス、「正しい人」と称えられているヴェルギリウス、またホラティウスなどは同性愛をまったく自然なことがらとみなしています。道徳的な詩の中でホラティウスは、「若い男たちは奴隷の少年か少女を手に入れるまでは、妻を得たりしないように」と忠告しています。辛らつなマルティアリスは、ホモセクシュアル的な行動の中にいろいろと笑いを誘うような特徴のある人たちのことをあげつらっています。
紀元後1世紀においても同性愛に対する人々の態度は以前と変わらなかったように見受けられます。理論的にも実生活でもホモセクシュアルとバイセクシュアルは、ヘテロセクシュアル(男女間の性関係)と同様に承認されていました。つまり同性愛は人々から完全に認められた生き方だったのです。そして、このような世界の只中で新しく生れたキリスト教が躍進を始めたのでした。はたしてキリスト教はこの同性愛という問題に対してどのような態度をとるのでしょうか?


5.新約聖書

同性愛に対する新約聖書の一番重要な姿勢は、よく知られているように、ローマの信徒へのパウロの手紙の中にあります(1章24~28節)。1章18~32節でパウロは、異邦人たちが神様の御前で罪人であることを示しています。異邦人たちは、神様の創造のみわざを目にしていながらも、神様を創造主として崇拝しようとはしませんでした。それどころか、彼らは神様の栄光を人間と動物の像のかたちに代えてしまいました。異邦人たちが「活きておられる神様」を捨てたため、活きておられる神様もまた彼らをお捨てになりました。パウロによれば、たとえば異邦人たちがどれほどひどく神様から離れ去っているか、まさにホモセクシュアルの問題にはっきりあらわれています。
「それゆえ、神様は彼らを侮蔑すべき情欲にお渡しになりました。すなわち、彼らの中の女性は、その自然な性的関係を不自然なものに代えてしまいました。同様に、男もまた同じように女性との自然な性的関係を捨てて、互にその情欲の中で燃え、男性は男性に対してみだらな行為をし、そしてその迷妄の当然の報復を自分の身に受けています。」(1章26~27節)
使徒パウロを通して与えられている神様のこの御言葉の背景には、旧約聖書とパウロの時代のユダヤ教とのホモセクシュアルに対する変わることのない嫌悪があります。
同性愛の傾向のある人たちと、異性愛の傾向があるにもかかわらず自然な傾向を他のものに「代えた」人たちとを区別することによって、パウロの考え方を救い出そうとする試みもあります。しかし、このような試みは、ユダヤ人たちの最高法院を原子力の反対派と賛成派に分けるのと同じくらい「自然」なことといえるでしょう。つまり、このような区別はパウロにとって思いもよらないものです。
パウロは、当時の異邦人たちが深い迷妄に陥っていることを示す絶好の例を見つけたのでした。つまり、異邦人たちにとって自然で、美しく、洗練されたことがらは、神様の啓示と、選び分かたれた民の確信とに基づけば、不自然で、不道徳で、ひどいことなのです。

同性愛は、「悪い行い」として初代キリスト教会が挙げている「一覧表」の中に少なくとも3回は登場しています。
コリントの信徒への第1の手紙6章9節では、アルセノコイタイ(同性愛の性交において能動的な側)とマラコイ(同性愛の性交において受身の側)が区別されています。双方について「このようなことを行う者たちは神様の御国を継ぐことはできない」と言われています。「あなたがたは知らないのですか」というパウロの言葉は、このことがコリントの信徒たち皆にとって周知であることを示しています。
初代教会では、人々が洗礼を受けるときに新約聖書の中にある「何が悪い行いか」を列記したリストの内容について教えを受けていたのは、まずまちがいありません。このように、初代教会は、異性愛の乱用や窃盗と同じように、同性愛もまたクリスチャンにはふさわしくない生き方であることを教会に属する者ひとりひとりがはっきりと知るように、取り計らったのでした。
他の箇所は、テモテへの第1の手紙1章10節と、フィリピの信徒へのポリュカルポス[3]の手紙5章3節です。後者の手紙にはコリントの信徒への第1の手紙からの直接の引用が含まれています。これらの箇所は初代教会の考え方をはっきり示しています。すなわち、(結婚生活における)異性愛は神様の創造のみわざに適った振る舞いであり、それを通して神様は御自分の賜物を分け与えてくださいます。それに対して、同性愛は自然に反したことであり、いかなる場合であってもクリスチャンにはふさわしくない生き方です。


6.教会の歴史

歴史的に見ると、ヨーロッパではキリスト教が広まっていくにつれて、人々の性的な行動も変わっていきました。同性愛は公共の場から消し去られ、禁じられたおぞましい振る舞いであるとみなされるようになりました。にもかかわらず、同性愛は決して消えることがありませんでした。それをよく物語っているのが、クリスチャンの国々における同性愛に対する厳しい罰則規定です。しかし1900年代に入ってから、状況が変わり始めました。この変化がはたして真の福音を見つけたことによるものか、それとも新たなる異邦化(反キリスト教化)の力が強まってきていることのおそるべき証拠であるか、私たちはそれぞれ見極めていく必要があります。


7.結論

ルター派の教義学は、それが御言葉の堅い基盤のみによって支えられていることを誇りとしています。人間的な考え方はどんどん変わっていきます。しかし、神様の御言葉は決して変わることがありません。ルター派では、倫理あるいは信仰にかかわる問題は昔から二つのグループに分けられてきました。ある事柄については聖書にはっきりと指示を与える御言葉がありますが、また別のことがらについては聖書は沈黙しています。ある問題について聖書が沈黙を守り、明瞭な聖書の箇所に直接基づいた指示を見出せない場合には、こうした問題は「どちらでもよいこと」(アディアフォラ)と呼ばれます[4]。こうした問題については、クリスチャンは、愛に留まりつづけることを忘れない限り、自己の良心に従って活動してもよいのです。ところが、聖書が何かの問題について語っている場合には、その問題はあらゆる時代のすべてのクリスチャンにとって、すでに「解決済み」なのです。これが伝統的なルター派の理解です。私は誇りをもって私たちの教会の伝統を告白し支持します。このような立場からみるとき、聖書はすでに同性愛という問題についても疑問の余地なく解決を与えていると、私は理解しています。もちろん、同性愛で苦しみ、それと戦っている人たちの心のケアのためには特別な知恵が要求されますが、それについてはここで触れることはできません。

私は1984年にこのテーマについて神学生たちに話をしたことがあります。約束どおり「ホモセクシュアルのクリスチャンのための聖書研究会」からも話を聞きに来た人たちがいました。盛んな議論が交わされました。その聖書研究会のグループの学生たちは、自分たちの弱さを認めてもらうことを周りから要求しませんでした。彼らの意見によれば、同性愛はクリスチャンにとって何の悪いことでもないのです。彼らの議論の根拠になっている考え方は教会でなされてきた女性牧師制についての議論の展開と同じでした。すなわち、「聖書は同性愛について語ってはいないか、あるいは、仮に語っているとしても旧約聖書だけだ。もしも新約聖書も同性愛について語っていることを認めなければならない場合でも、見なさい、イエスはこの問題について一度も語っていないではないか。パウロはたんなる人間だった。聖書を文字通りに受け取ってはいけないのだ。人が天国へ行くのは、その人がヘテロセクシュアルだからではなく、人が地獄へ行くのはその人がホモセクシュアルだからというわけでもない。」
彼らとの議論はすべてまったくむだだったように思えます。彼らにとって聖書の御言葉には何の価値も権威もないのです。

おそるべきことに、フィンランドの教会の神学者たち自身が、大学やメディアを通じてこのような「論理」を学生たちにも一般の教会員にも教え込んできたのです。同性愛の問題は、女性牧師制や離婚した人の再婚を教会で司式することや制度としての同棲を教会として容認することと同じように、上記に挙げたような議論のやりくちで片付けられてきました。同性愛の危険についての聖書の教えを無視して教会員に「違うこと」を教えている者たちは、「羊の群れの中にいる、羊のなりをした狼」です。もしも私たち牧師や神学者が神様の御言葉を軽蔑するように人々に教えるならば、私たちはこの国民が聖書の神様の語りかけを聴くことができなくしてしまうのです。この国(フィンランド)には神様の律法によって自己の良心をとがめられ、キリストが十字架で確保してくださった恵みに感謝して満ち足りるような「罪人」がもはやほとんどいないのではないでしょうか。それは非常に危険な状態です。

 あるリベラルな聖書学者は「同性愛と聖書の問題」というテーマを掲げました。こうした問題設定はある意味で本質をついています。まさしく具体的な聖書の箇所について、私たちが本当に「聖書的」であるか、それともたんなる「保守的」であるにすぎないのか、が試されます。私たちクリスチャンの使命は、「岩」の上に教会を築くこと、神様の御言葉という決して裏切らない基盤に立つことです。このようにしてのみ、教会の最も貴い宝、キリストの血の福音が混じりけなく純正に保たれるのです。
[1] たとえば、”Sexual Behavior in the Human Male”(1948).
[2] 成人の男と若者の男との間の性的な教育関係をさす。
[3] 使徒教父のひとり。
[4] 詳しくは、ルーテル教会信条集・一致信条書の中の和協信条・根本宣言第10条を参照のこと。

2008年4月29日火曜日

イスラエルとは何でしょうか?

エルッキ・コスケンニエミ  (フィンランド福音ルーテル協会牧師、神学博士)


1.神様はアブラハムと契約を結び、彼を御自分の民として育んでくださいました(創世記15章)。この民にモーセの十戒が与えられました。そして、唯一この民「イスラエル」のみが「神様の所有の民」となったのでした(出エジプト記19章3~5節)。他のすべての異邦の民は偶像を崇拝していました。ただイスラエルのみが真の神様に仕えていたのです。神様のすべての約束はイスラエルに対してのみ向けられていました。一方では、神様がひとつの民を選ばれたのは、神様がすべての民に近づかれたことを確かに意味していました(出エジプト記19章5~6節)。

2.イスラエルは神様に対して絶えず反抗していました。神様はそのようなイスラエルを懲らしめました。しかし、再び御自分の民を憐れまれ、預言者たちを派遣してくださいました。預言者たちはイスラエルに悔い改めるように説教しました。そして、真の王国を築き上げる「来るべき王キリスト」について預言しました。

3.キリストがこの世にやって来られた時、神様の民はキリストを受け入れないどころか、この方を十字架につけることを要求しました。しかし実は、このようにして神様の隠された御計画が実現したのです。それは、ゴルゴタの十字架でイエス様が成し遂げてくださったこと、すなわち、「人を罪ののろいから救い出す」というあがないのみわざでした(イザヤ書53章)。キリストは死者たちの中からよみがえられたとき、すべての民を御自分の弟子とするために使徒たちを派遣されたのでした(マタイによる福音書28章18~20節)。このようにして今や神様は、御自分の所有の民イスラエルだけではなく、すべての民に近づいてくださったのでした。

4.イスラエルの立場は今はどうなっているのでしょうか?最も大切な聖書の箇所はローマの信徒への手紙9~11章です。ここから私たちは3つのことを学びます。

1)イスラエルはキリストを見捨て、神様から離れ去りました。こうして神様の恵みをいただく権利を完全に失ったのでした(ローマ10章21節)。イスラエルの代わりに、神様は異邦の民を招かれました(ローマ9章24~25節)。この新しい民は「神様のイスラエル」と名づけられています(ガラテアの信徒への手紙6章16節)。

2)しかしながら、イスラエル全体が神様から離れ去ったわけではありませんでした。なぜなら、そのうちの何人かはキリストを信じたからです。こうして神様は、イスラエルの父たちにお与えになった約束を忠実に守られたのでした(ローマ11章1~5節)。

3)神様はこれから再びイスラエルを招いてくださることになっています。そして、時の終わりに、この招待は受け入れられるのです。こうして神様は御自分の民を憐れんでくださることになるのです(ローマ11章25~26節)。

今私たちは、イスラエルとユダヤ人とをいろいろな角度から見ることができます。イスラエルは「神様の所有の民」であったし、今もそうです。しかし、彼らは今はまだ心をかたくなにしたままでいます。もしもキリストを受け入れず拒むならば、たとえ「神様の所有の民」に属していても、救われることはありません。
私たちは、神様が御自分の約束を思い出して、イスラエルをキリストのみもとへと方向転換させてくださるように、祈ります。

5.私たちは、イスラエルの歴史を調べることで、多くを学ぶことができます。神様は、イスラエルにたくさんのことを与えてくださいましたが、イスラエルは、キリストを拒んだときに、そのすべてを失ってしまいました。私たちが神様の子供であり、キリストの教会、すなわち「神様の新しいイスラエル」に属しているのは、神様からいただいた恵みによるのです。一方で私たちは、「もしも神様が生来の枝を惜しまれなかったのならば、あなたのことも惜しまれはしないだろう」という警告も受けています。キリストにおいてのみ救いがあります。そして、キリストを捨て去る者たちの受ける分は滅びです。

(日本語版翻訳編集 高木賢 フィンランド福音ルーテル協会職員、神学修士)

2008年4月11日金曜日

原罪 あらゆる罪の源



原罪 あらゆる罪の源

パシ パルム


「悪い人などはいない。ある人はほかの人より弱いだけだ」とある詩人は言いました。今でもこうした考えに同調する人は多いようです。赤ちゃんの洗礼式に参加する人の多くは、だっこされている赤ちゃんの「罪深さ」について話す牧師の言葉に戸惑いを覚えます。自分が受け入れた「宗教的な教え」に従って、自分を「罪のないよい存在」に変えようといくら努力してもうまくいかないために、絶望してしまう人もいます。これらの例は、原罪についての聖書の教えが理解されていないか、あるいは認められてはいないことを示しています。

最初の人間たちの堕落の結果として、人間全体が罪の支配下に陥ってしまいました。人は皆、このように霊的に死んだ、不信仰と悪い欲望にまみれた状態の中へと生まれてきます。つまり、人は神様とその御心に反抗する態度をもって、生まれてくるのです。このような状態にある人間は滅びるほかはありません。ところが、人が洗礼と信仰を通して新しく生まれる場合には話が変わってきます。クリスチャンは、「罪の赦し」を信仰によって「自分のもの」としており、洗礼においてそれを賜物として与えられているがゆえに、原罪のもたらす「罪悪感」から解放されています。しかし、この世で生きている限り、原罪による「腐敗」はクリスチャンの中にも依然として残存し続けます。そして、原罪による腐敗は、さまざまな「行いによる罪」として、日常生活の中ですべての人の考えや話や行いの中に例外なく噴出してきます。



原罪を否定するいくつかの意見があります。

1)人は根本的には悪ではありえない。なぜなら、人は多くの自己犠牲的なよい行いをすることができるからだ。

2)聖書は原罪について何も言っていないではないか。原罪についての教えは、教会が「幼児洗礼」を正当化するために捏造したのさ。

3)もしも神様が「人が自分で行ったわけではないこと」のゆえに、その人を裁くというのなら、神様は公正ではない。



これらの主張に対する答えは次のとおりです。

1)人は神様の御創りになった存在であり、もともとは(神様にそのままで受け入れていただけるような)「義」なる存在でした。人間全体の罪の堕落の後も、人はどうにかこうにか「外面的な義」(たとえば、仕事をし、家族を養い、困っている人たちを憐れむことなど)を実現することができます。しかし、人の中には、神様の御前にして(自分を正当化できるような)「心の義」はないのです。


2)「聖書には原罪についての教えがない」というのは正しくありません。なるほど聖書は「原罪」という言葉を用いてはいませんが、その存在を前提としています。たとえば、マタイによる福音書1519節、ヨハネによる福音書36節、詩篇517節、ヨブ記144節、ローマの信徒への手紙3912節、51819節、エフェソの信徒への手紙213節を読んでください。

3)神様は公正なお方です。それに対して、人が腐敗しているのです。犯罪者が裁判官を批判する立場に立つのは不可能です。どんなにそうしたいと思ってもです。人はアダムと同じ状況に置かれた場合には、誰でも皆アダムと同じように行動したことでしょう。私たちはこの問題に関しても「聖書の生徒」であり続けたいと思います。

4)だっこされている赤ちゃんのことを考える場合には、「罪はたんに行いのみではない」ことを思い起こしましょう。行いは考えから出てきます。そして、考えもどこからか出てくるのです。人は、悪い行いをするから、罪人なのではなく、逆に、人は、罪人であるがゆえに、悪い行いをするのです。

2008年3月19日水曜日

イエス様の十字架刑

今回は受難週の意味を考えましょう。その核心はもちろん十字架です。


エルッキ・コスケンニエミ (日本語版翻訳編集 高木賢)

イエス様の十字架刑には周到な精神的かつ肉体的虐待が用意されていました。茨の冠はイエス様の頭を血だらけに引き裂いていました。退屈な一日を紛らすためにローマの軍隊たちは、本来人を打ちたたいて懲らしめるために用いられる棒を「王笏」としてもたせ、赤い道化の王様のマントを身にまとわせて、イエス様を「ユダヤ人の王」に仕立て上げてからかいました。こうして彼らはまた普段から侮蔑してきたユダヤ人たちに嫌がらせをしたのでした。このことはピラトが書かせたイエス様の死刑の理由(「ユダヤ人の王」)からも伺えます。当然のことながら王様は真ん中の十字架に付けられ、王の臣下たち[1]はその両脇にはりつけになりました。

真昼になってのどの渇きに苦しんでいる人に「飲み物」として差し出されたのはすっかりすっぱくなったぶどう酒でした。イエス様は異常なほど厳しく鞭打たれていました。おそらくまさにそのせいですでにたくさんの血を失っていたイエス様は精神的な苦しみとあいまって十字架上で力を失い、驚くほど早く死なれたのでした。(死期を早めるために)イエス様の脛骨を打ち砕く必要はありませんでした。というのは、死んで不自然に捻じ曲がったイエス様の身体は専門家だけではなく普通の人が見てもイエス様がすでに死んでいたことを告げていたからです。何の気なしに兵士がイエス様のわき腹を槍でつついたときに、そこから水と血が流れ出ました。現代の医学によると、死んだばかりの人のわき腹からは水と血が湧き出ることがありうるそうです。ローマの処刑者たちは「イエスは死んだのではなく実は気を失っていただけだ」と主張する者たち(そういう人たちがいるのです)に対してまともに取り合ったりはしないことでしょう。彼らは十字架上で死んだひとりの男を目にしました。この人の死の中に高貴さとか美しさとか素晴らしさなどを見出した者は誰もいませんでした。「ユダヤ人の王」として通報された者が苦しみの最期を遂げたのです。

十字架の血の福音

イエス様が復活された後、人々を罪ののろいから救い出す福音はあらゆるところへと伝えられていきました。多くの者は「十字架で殺された神様の御子」についての話を愚かしく思いました。十字架刑を一度でも見たことがある者なら誰でもそれがどのようなものであるか知っていました。十字架に付けられたキリストについての話はそれについて聞いていた人たちを躓かせました(コリントの信徒への第1の手紙1章23節)。すでに初期のクリスチャンたちの中にもイエス様には本来似つかわしくないようなひどい死に方について沈黙しようとする人たちがいました。「イエスが苦しんだのは外見だけで、実は肉体は苦しまずにすんだのだ」などと言い出す者たちもいました。

こうした考え方とは反対に、イエス様の弟子たちはまさにイエス様の十字架の死の中に信仰の核心を見ました。イエス様は神様の愛の御意志に対して最後まで忠実であられました。イエス様は十字架上で神様に見捨てられのろわれたものとなりました(ガラテアの信徒への手紙3章13節)。イエス様は侮られさげすまれるために「あげられました」(ヨハネによる福音書3章14~15節)。まさにこのようにしてイエス様は御自分の上に私たちの罪の懲罰を身代わりにお受けになったのです。私たちはイエス様と「もちもの」を交換することが許されました。すなわち、イエス様は私たちが報酬として受けるのが当然である神様の怒りをかわりに担ってくださいました。私たちはイエス様が報酬として受けるはずの神様の愛をかわりにいただきました(コリントの信徒への第2の手紙5章21節)。
[1] イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗たちをさしています。

2008年3月14日金曜日

天国の広場で

今回のテーマは「罪人はどうすれば救われるか」です。
それと関係してこの世の終わりに訪れる「最後の裁き」について学びましょう。



天国の広場で

エルッキ・コスケンニエミ (日本語版編集 高木賢)


1.問題の所在

「広場」とはラテン語でforumといい、「裁きの座」を意味しています。言い換えればこの表題は「大いなる裁きの座」をあらわしています。このテキストで私たちは「神様が人々の前で裁きを行われること」について語っている聖書の箇所を調べることにしましょう。


2.さっさと私を裁きなさい!

多くの人は神様の裁きを避けようとしています。しかし、少なくとも聖書の中の登場人物の一人は自分自身に関して神様の裁きがなされることを祈り求めています。ヨブは神様が裁きの座に出てくるように要求しました(とりわけヨブ記23章1~12節)。もしも公平な裁判ならば、ヨブは神様が彼に対して行ったわざに関して神様を有罪とし、「ヨブが正しく、神様が間違っている」ということがあきらかにされたことでしょう。ヨブの友人たちは本当のことや正しいことを話しているし、ヨブと共に部分的には調子をそろえています。しかし、ヨブの友人たちはヨブの考え方や態度を変えさせることはできませんでした。最後にようやく主がヨブにあらわれて、ヨブは「よりよい神学」を学びました。つまり、ヨブは神様の裁きの座の前で黙ることを学んだのです。しかし、神様の御言葉がこれと同じ奇跡を今でも私たちの只中で行えるように私たちは御言葉を学んでいるでしょうか。


3.旧約聖書から

ゼカリヤ書3章1~7節は、神様の民が自分たちの罪に対して裁きと懲罰を受けた時期について語っています。エルサレムは破壊され、神殿はもはやなく、民は捕囚となりました。神様が御自分の民を彼らに与えた土地に連れ戻されたとき、主は預言者ゼカリヤが大祭司ヨシュアが神様の御前で民全体の代表として立っているのを「見る」機会をお与えになりました。裁きの座でヨシュアは憐れみを受けて釈放されました。なぜなら、この男は「火の中から取り出された燃えさし」(ゼカリヤ書3章2節)だったからです。こうしてヨシュアは憐れみを受けた者として生きていくことを許されました。「天国の広場」での裁決は悪魔を沈黙させました。

詩篇143篇は「人が自分の罪を悔いる」というテーマを扱っています。敵のゆえに命が危うくなっているダヴィデが地面に伏して全能の主の助けを求めて叫びます。それと同時にダヴィデは自分の罪のせいで助けをいただけないのではないかと恐れます、「主よ、あなたの僕を裁きの座に引き出さないでください。あなたの御前では誰ひとりとして義とされないからです」(2節)。天国の広場では罪人に対して罪の重荷から解放する裁定が待っています。あるいは、「天国の広場では裁判そのものがまったく始まらない」と言ってもよいでしょう。


4.大いなる裁き

新約聖書は世界史全体のしめくくりとして次のような状況を提示しています、「生きている者も死んだ者も、大きい者も小さい者も、大いなる白い裁きの座の前に立ち、書物が開かれます。その「命の書物」の中に名前がある者は命の世界に入ることができ、命の書物に名が記されていない者は死の王国に落ちていくほかないのです」(ヨハネの黙示録20章11~15節)。
天国の広場が人で一杯になる時が来ます。すべての人がそこにいるのです。

罪人に残された唯一の可能性は、パウロがテサロニケやアテナイで教えた基本的なことをきちんと復習することです。神様の怒りが世界を覆う時が来ます。「神様が死人の中からよみがえらせた神様の御子、すなわち、私たちを来るべき怒りから救い出してくださるイエス様が、天から下って来られるのを」私たちは待つようになりました(テサロニケの信徒への第1の手紙1章10節)。同じ教えはパウロのアレオパゴスでのスピーチの中にも見えます(使徒の働き17章)。    

「義認」(義と認められること)、すなわち、人が大いなる裁き主の御前で罪を赦され認めていただけることは「人がよりよい存在になる」という意味ではありません。義認とは、「人には心にやましい罪がない」という意味ではありません。義認は、「罪が罪とはみなされない」ということです。パウロは、ふたつの異なる義について語っています。ひとつは人間自身の「行いによる義」で、人はそれを捜し求めますが決して見つからないものです(ローマの信徒への手紙9章30~33節)。もうひとつの義はキリストのゆえに賜物としていただける義です。これに関して最も大切な聖書の箇所はとりわけローマの信徒への手紙4章3節、22~25節、および、ガラテアの信徒への手紙3章6節です。真っ白な裁きの座の御前で私たちの「避けどころ」となるのは、自分自身の義ではなく、私たちの罪を帳消しにしてくれる「キリストの義」です。


5.いくつかの選択肢

いままで述べてきたことは、「どのように人が救われるか」についていくつかのはっきりとした「境界線」を引かなければならないことを私たちに教えます。

神様の怒りと永遠の裁きについての教えをまったく受け入れない人たちがいます。彼らは、「イエスは神が怒ってはおらず今まで怒ったこともないことを教えにきたのだ」と主張します。これは誤りです。
「天国の広場」ではいつか必ず大規模な集会が開かれます。もしもそのときにキリストから賜物としていただいた義が「避けどころ」となってくれなければ、人は永遠の命の中へ入ることができません。

「義認とは人がこの世での人生の間に義なる存在に変化することだ」と主張する人もいます。「神が人の中にその力を注ぎ込み、その結果として人は次第によりよい存在に変わっていく」と言うのです。これも間違いです。
なぜなら、「私がクリスチャンである」ことは私によって決まることではなく。どこか天の岸辺の向こうでいつか将来に実現することでもないからです。キリストはゴルガタの十字架で罪人である人間と聖なる神様の間に平和をもたらしてくださいました。キリストは聖なる洗礼において、私に御自分の義を着せてくださいました。キリストは聖霊様によって、すべての人に贈ってくださっている救いを私が自分のものとして受け取るようにしてくださいました。信仰は確かに人の人生を変えます。
しかし、それはここで扱っていること(人はどのようにして神様に義と認められ、救われるか)とはまったく別のテーマです。信仰により人の人生が変わるのはキリストの愛の力によってであり、人自身の業績(よいほめられるべき行い)とは関係がありません。

救われるという確信を自分自身の心から探しまわって、種々の精神的な鍛錬によって自分を高めようとする人たちもいます。しかし、どれほど熱心に信仰にかかわることがらに集中してみたところで、土曜日の夜には真実味を帯びていたことも次の月曜日の朝にはそれが本当だとは感じられなくなってしまったりするものです。心がキリストに対して熱く燃え続けることもありません。
それに対して、私の「救われるという確信」は次の二つのことに基づいています。
まず、神様のすばらしい救いのみわざは、私がまだ生れる前にすでに成就していました。次に、私は義とされています。なぜなら、神様はキリストの救いのみわざによる報酬を私にも分け、私の名前を命の書に書き込み、私を裁きにかけるようなことはなさらないからです。

2008年2月29日金曜日

神様から来るリヴァイヴァル

「人が霊的に目覚める」というのはどういうことか、考えてみましょう。


神様から来るリヴァイヴァル

エルッキ・コスケンニエミ


「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねなさい。近くおられるうちに呼び求めなさい。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰りなさい。そうすれば、主はその人をあわれんでくださいます。私たちの神様に帰りなさい。主は豊かに赦しを与えてくださいます。私の思いはあなたがたの思いとは異なり、私の道はあなたがたの道とは異なっている、と主は言われています。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与えます。このように、私の口から出る言葉もむなしくは私のもとに帰りません。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを実現します。あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行きます。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打ちます。いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生えます。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはありません。」(イザヤ書55章6~13節)

このイザヤの言葉を聞いたのは、バビロン捕囚の下に置かれていた神様の民でした。この民は主の戒めをひどく破り、すべてを失ったのでした。エルサレムは荒れ果て、もはや自分たちの王はいませんでした。主の聖なる神殿は汚され、壊されていました。ところが、それから何十年も経った今になって、この民に神様の御言葉がおとずれ、新しい恵みの契約へと招待したのです。「民は喜びの中に自分たちの土地に帰ることができる」と、主は約束してくださいました。神様は御言葉をむなしく送られたわけではありませんでした。神様のくださった雨が、すべてが実を結び成長するように働きかけるのと同じように、御言葉もまた働きかけます。御言葉は、主がそれに与えた使命を正確に実現します。上に挙げたイザヤ書の御言葉もその通り実現し、神様の民は自分たちの土地へ帰ることができたのでした。

歴史は私たちに、神様の御言葉にはすごい力があることを教えてくれます。この力は今日でもちゃんと御言葉に保存されているのです。それゆえ、私たちはリヴァイヴァル(多くの人がある時に霊的に目覚めること)を祈り、「神様はそれを今でも私たちに与えることがおできになる」と強く信じています。


神様から来ていないリヴァイヴァルもあるのでしょうか?

確かに、神様から来ているとは言えない「リヴァイヴァル」もあります。私たちはすべての霊的なことがらを神様の御言葉によって評価しなければなりません。真のリヴァイヴァルは神様の御言葉の中に留まります。人々が自分の罪を告白して、自分の力ではなくイエス・キリストのゆえに、「自分が聖である」ことを信じて、神様の御言葉に従って活きて行くように人々を導く者は、神様の御心に適うことを行っているのです。本物のリヴァイヴァルの伝道者は、自分の心の不幸なほどののろさや冷たさを嘆いている人に対しても、何かよいメッセージがあるはずです。神様の恵みは、はるか彼方から降ってきて、ひどく冷え込んでしまった心の持ち主に新しい愛と力を与えるものでなければなりません。

一方では、私たちは、自分たちの用心深さのせいで、リヴァイヴァルの火を消してしまうことがないように注意しなければなりません。リヴァイヴァルでは、常識では考えられないようなことが起こるので、それに付随して、本来のリヴァイヴァルではないようなことが起きるのもさけがたいのです。たとえば、信仰の核心がちっともわかっていないままで、周りから注目を浴びようとする人たちも混ざってきます。霊的な力を経験した人が、他の人も皆自分と同じ経験をするように激しく要求する場合もあります。自分の教えの内容が、実は聖書とは違う何か他のものに基づいていることに、気が付かない人もいます。
このような状況の中で、私たちはどこか安全な場所に逃げ込んで、そこから決定的なパンチを繰り出す、というやり方もありうるでしょう。
もうひとつの方法は、パウロのように、今起きているリヴァイヴァルについて認めることができる点はちゃんと認めて、相手の使い慣れた言葉を用いて、相手の弱い点を忍耐しつつ、しかし同時に、神様の真理をはっきりと前面に打ち出す、というやり方です。
私たちも、リヴァイヴァル運動に参加してきた信仰の兄弟姉妹の中にリヴァイヴァルとは相容れない面や間違っていることがあった場合にどのようにして彼らと出会い付き合っていくべきか、あらかじめ心の準備をしておくべきでしょう。
神様の御言葉は、私たちがそれにしっかりつながっている限り、リヴァイヴァルを整え導きます。神様も私たちに対して忍耐され、私たちに真理を学ぶ時間を与えてくださっているのです。私たちも隣人に対して同じようにしない理由があるでしょうか?


リヴァイヴァルの核心とは何でしょうか?

ローマの信徒への手紙3章

どんなリヴァイヴァルでも神様から来ているというわけではありません。この世には、神様の真理から何光年も離れているような熱狂的な運動がたくさんあります。「宗教的」であることが、キリスト教にとって最悪の敵となるさえあります。どうすれば私たちは、真のリヴァイヴァルを見分けることができるのでしょうか。

神様の与えてくださった本物のリヴァイヴァルは、聖書にしっかりと基づいています。そこでは人は、自分の本当の状態に気が付きます。今の世の中では、神様をまったく必要としていないかのように思い込んでいる人たちが大勢います。彼らは、信仰のことがらを考えることがあったとしても、それはせいぜいロウソクを点して聖なる雰囲気を味わったり、美しく飾られたクリスマス礼拝に参加したりする程度のものでしょう。彼らにとって教会は雰囲気を提供する場にすぎません。罪と恵みについての話は彼らにとってちんぷんかんぷんです。「私は銀行強盗をしたこともないし、誰も殺したことがないのだから、何も怖がる必要はないだろう?」確かに人々の前では何も恐れる必要はないかもしれませんが、神様の御前ではそうではありません。
ローマの信徒への手紙3章は、人は各々神様の御前で罪深い存在である、と教えています。人にはいつも悪い考えや悪い言葉や悪い行いが伴っている、ということは、「人は、神様の栄光を受けられなくなっている」ということを意味しています(23節)。つまり、人は神様の栄光へと入っていくことができないのです。人の本来行くべき場所は、永遠の滅びです。

このことについて多くの人たちは、家に火がついて煙が立ち昇り始めているのにぐっすり眠り込んでいる人と同じくらい、無頓着なままです。そういうときには本当なら目を覚まして危険を察知するべきなのです。私たちを罪のまどろみの中から起こしてくれるのは、神様の御言葉です。これによって私たちは、自分たちが神様の怒りと裁きを受けるのが当然であることを、知ります。そしてこうしたことがわかるようになるのは、人が理性的に自分の頭で考えたからではなく、神様が与えてくださった大きなプレゼント、聖霊様の働きのおかげなのです。

私たちが絶望のうちに死ぬことがないように、神様は働きかけてくださいます。聖書にこう書いてあります。
「すべての人は罪を犯して、神様の栄光にあずかれなくなっています。彼らは、価なしに(ただで)、神様の恵みにより、キリスト・イエスにおけるあがないを通して、義とされているのです。」(ローマの信徒への手紙3章23~24節)
私たちの罪は神の小羊イエス様の血によって赦されています。これが私たちにとって唯一の「避難所」です。信じ始めたばかりの人にとっても、また、ヴェテランの信仰者にとっても。この守りの城砦は決して揺るがず、私たちを裏切ることもありません。

このように真のリヴァイヴァルとは、「罪と恵みを知ること」です。それは、はじめからおわりまで聖霊様のみわざです。「聖書は聖霊様の働きかけによって生れた」ことを、私たちは信じます。それゆえまた、「今もなお、聖書は聖霊様に反対して語ることは決してない」と私たちは信じます。真のリヴァイヴァルは、「偉大な神様と御言葉を前にして畏れる心をもって歩むこと」を人々に伝えていくものです。


リヴァイヴァルを体験する必要があるのでしょうか?

人はその人生の中で「リヴァイヴァル」(あるいは「新しく生まれる」とか、「信仰に入る」とか、いろいろな言葉がありますが)を体験することが絶対に必要である、と考えるクリスチャンがいます。「人は心の底から自分を主にお渡しし、霊によって満たされることが必要だ。もしもそうでなければ、誰も神様のものではありえない」というのです。

私たち人間は、自分で決めた要求を自分に課すのに慣れています。そして、「他の人も皆、自分と同じように体験するべきである」と要求しがちです。しかし、とりわけこうした問題については、人は神様の御言葉を超えて何か勝手なことをやってはいけません。もしも人がキリストを受け入れるのならば、すべてはそれで大丈夫なのです。自分の考えに頼って神様のみもとに行ける人はひとりもいません(たとえば、コリントの信徒への第1の手紙2章14節)。それはいつも聖霊様のみわざです。私たちは皆それぞれ異なっています。敏感な人もいれば、そうではない人もいます。敏捷な人がいれば、のろい人もいます。天の父なる神様は御自分の子供たちをよく御存知です。お父様は私たちをどのような道に沿って導いていかれるか、よく御存知です。自分の罪や心の冷たさを悲しんでいる人は、それが実は聖霊様が与えてくださった賜物であることを知りなさい。自分の希望をキリストに託す人は、救いの道を歩んでいます。私たちには、私たちのあがない主なるキリストがおられる、ということで十分なのです。イエス様は、私たちを聖なる洗礼において「御自分のもの」としてくださいました。イエス様は、私たちに御自分の恵みを主の聖餐で分け与えてくださいます。イエス様は、神様の御言葉の中で、あなたを愛しておられることを誓っておられます。

私たちは自分の人生の中で、ある特殊な体験や決まったパターンを必要とはしていません。私たちが必要なのは、イエス・キリストです。もしも私たちにイエス様がおられるならば、実は私たちにはすべてがあるのです。もしも私たちにイエス様がおられないならば、私たちには何もないのです。たとえ私たちがどれほど「宗教的」であったとしてもです。


リヴァイヴァルを経験した人は、いつも目を覚ましているのでしょうか? 

一度リヴァイヴァルを体験した人が、おわりまで「目を覚まし続けている」とは限りません。キリストは御自分の民が目を覚まし続けているようにと、忠告なさっています。私たちが出会う危険は大きいのです。神様の子供は、神様からいただいたものを、いともたやすく失ってしまいます。 滅びの道を歩んでいる者にとって、一度若いときに経験したリヴァイヴァルは、たいした役に立ちません。自分の力に頼る限り、私たちは、ゲッセマネにいた弟子たちと同じようなありさまです(マタイによる福音書26章)。キリストは弟子たちを何度も起こさなければなりませんでした。にもかかわらず、弟子たちはいつも深い眠りにとらわれました。それゆえ、私たちは、リヴァイヴァルを神様に絶えずお願いして、こう祈ります。「主よ、あなたの教会を眠りから起こしてください。そして、それを私からはじめてください!」




2008年2月13日水曜日

私は正しく生きているでしょうか。

何がクリスチャンとして正しい生き方か、どうすればそのように生きられるか、今日はこのことを考えてみたいと思います。


私は正しく生きているでしょうか。


ヤリ・ランキネン


神様は人を「御自分のかたち」に創られました。それは、神様は人をあることがらについては「神様と似たもの」となさった、という意味です。「神様のかたち」は、神様が知っておられるのと同様に、何が正しくて何がまちがっているか知っていました。神様のかたちとして人は「悪を避け正しく行動しなければならない」ことを理解し、また常に正しく行動しました。神様のかたちとして創られたということは、自分の行いについて神様に対して責任をもつということでもあります。神様は御自分のかたちに対して「神様のように生きていたか、正しいことを行ってきたか」について厳しいチェックを要求なさいます。ところが、はじめの人(アダムとエバ)が罪に堕落するということが起きてしまいました。その結果として人は「正しく生きるという能力」を失ってしまいました。罪の堕落が起きたため、私たち人間はするべきではないことを行い、しかもそれをせずにはおられなくなってしまいました。たとえそうすることが間違っているとわかっている場合であっても。たとえどんなに違った生き方をしようと努力しても。罪の堕落のもうひとつの結果として人は何が正しく何が間違っているかを知る能力がひどくあいまいになってしまいました。私たちの心の奥底も罪の堕落のために罪に汚されてしまっているため、正しいことを間違ったこととし、間違っていることを正しくみなしてしまうことがあるほどゆがんでしまっています。しかも実際にしばしばそのように行ってしまうのです。それゆえ、何が正しく何が間違っているかについての知識を私たち自身の「外側」から得る必要が私たちにはあります。確かに罪の堕落が起きてしまったとはいうものの、私たちは依然として「神様のかたち」なのです。私たちには正しいことと間違っていることについての理解が、たとえそれがどんなに曇ってしまっているとしても、残っており、私たちは自分の行なったことについて神様に対して責任を負うことになるのです。

罪の堕落は人を御自分のかたちとして創られたお方を汚しはしませんでした。創り主なる神様は何が正しく何が間違っているか、人の罪の堕落の前も後もかわりなく御存知で、常に正しく働かれています。神様は正しいことと間違っていることについての知識を御自分のものだけに留めてはおかれませんでした。神様はこれらについても私たちに御自分の御言葉をお与えになることによって語っておられます。それは次のふたつのことを意味しています。
1) 神様は聖書を与えてくださいました。神様の選ばれた人々が、神様が御自分で創られた人間に対して言われたいことを書き取りました。聖書には正しいことと間違っていることとについて聖書の立場を明瞭にしている箇所が数え切れないほどたくさんあります。それらは、何が正しく何が間違っているか正確に御存知である神様御自身の立場の表明なのです。それゆえ、正しいことと間違っていることとの感覚が曇ってしまっている私たち人間はそれらを注意深く聴いていくべきです。
2) 神様御自身がこの世に来られました。イエス様が人としてお生まれになったときにこのことは実現しました。イエス様は神様の御言葉であられ、神様御自身であられます。イエス様の中で「天地の主」が話し、教え、活動し、働きかけておられます。それゆえ、イエス様が正しいことと間違っていることとについて教えておられることは「神様の教え」なのです。私たちは「何が正しいか」を問うときには、「イエス様はどのように考えておられるか」について問うべきです。もしもそれを知るならば、私たちは神様の立場を知ることになります。イエス様のお考えについて私たちは聖書から知ることができます。聖書はまさしくイエス様についての書物なのですから。

聖書が何が正しく何が間違っているかについて語っていることは、人間が心の中でぼんやりと理解していことがらに対応しています。聖書が命じたり禁じたりしていることを聞くときに、あたかも私たちの心の中で誰かが「これは本当だよ」と言っているかのように感じるものです。たとえ人がそのあとで聖書の教えに反抗することになったとしてもです。これはどうしてでしょうか。それは、聖書が私たちの創り主の書物であり、私たちが私たちの創り主のかたちであるからです。人間ひとりひとりの中にある「何か」が、私たちの創り主が正しいことと間違っていることについて語っておられることがらに対応しているのです。このことは、私たちが聖書の命じていることがらをまわりにもはっきり語って、またそれに従って活動するように励ましてくれることでしょう。

ソヴィエト連邦では聖書の命じていることがらを教えることが禁止されました。聖書は廃棄され、また聖書の教えは人間たちが自分で考え出したいろいろな教えに取って代えられました。それらの新しい教えは聖書よりもずっと優れていると感じられたのです。さあ、何が起きたでしょうか。国民は盗んだり嘘をついたり周りの人を無視して生活することを学んでしまいました。国の経済もめちゃくちゃになり、前の「敵国」からの援助なしには立ち行かなくなりました。もっとも援助があっても厳しい状況はつづきましたが。自然もひどく破壊されました。ソヴィエト連邦ではこういう結果になりました。聖書やその命じていることが無視されているところではどこであれ、それと同じようなことが起こります。聖書は人間に最上の生活の教えを与えています。たとえば携帯電話など何か装置を使用するときに、その製造元が与えた装置の使用法を無視していると、その装置はまもなく壊れてしまいます。聖書ではこの世界の「製造元」が話しているのです。そしてこの「製作者」は、自分が創った世界でできるかぎり多くのものができるかぎりよい状態を保つためにはどのように生きていくべきなのか、よく知っています。

正しいことと間違っていることについての聖書の教えはすべて「愛の二重命令」に言い尽くされています。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」(マタイによる福音書22章37、39節)。「愛さなければならない」ということについては、間違いなく私たち人間は皆同じ意見でしょう。しかし、「愛とは何か」という点に関してはいろいろな意見があります。「愛とは何であり、様々な状況でどのように愛を実現していくべきか」ということについては、私たちの「外部」から説明してもらえない限り、私たちは知ることができません。そして聖書の中でその説明がなされています。聖書の中にある他の命令は「愛の二重命令」を補足説明するものなのです。十戒は愛の命令をすでにかなり広範にわたって説明しています。第一戒から第三戒までは「神様を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、私たち人間が他の神々(偶像)に仕えたりしないこと、神様の御名をいたずらに用いたりしないこと、安息日を聖とすることです。第四戒から第十戒までは「隣り人を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、両親を敬うこと、殺さないこと、姦淫をしないこと、盗まないこと、偽証しないこと、他の人のものを欲しないことです。

聖書には他にもたくさんの命令があります。それらもまた「神様や他の人を愛するとはどういうことか」ということを説明しています。聖書は人がすべてのことについて神様に感謝するように命じています(テサロニケの信徒への第1の手紙5章18節)。それは神様に感謝することは神様を愛することだからです。聖書は「税金を払わなければならない」と教えています(ローマの信徒への手紙13章5~7節)。たとえそれが高すぎると感じられる場合であってもです。税金をごまかして申告をするのは他の人たちに対する愛の欠如のあらわれなのです。

イエス様が地上で何を行われたか、どのように活動されたか、何を話されたか、ということから私たちは「神様と隣り人を愛することがどういうことであるか」を知ります。イエス様の中で神様御自身が活動なさいました。そして神様は愛の命令を破ったりはなさいません。私たちだったらこうはしなかっただろうと思われるような状況の中でもイエス様は愛してくださり、正しく活動されました。「何が愛であり、どのように活動すべきか」考えるときに、「イエス様だったらこのような状況の中でどのようになさるだろうか」考えてごらんなさい。イエス様と同じように行いなさい!もしそうするなら、あなたは愛しているのです。

私の友人はあるとき不倫についての教会の見方についてインタヴューを受けました。質問者は3度も違う表現と違う根拠を持ち出しては自分自身が行っている不倫を正当化しようとしました。私の友人が「聖書には第六戒がある」と3度繰り返して答えたところ、その質問者は傷ついて、「あなたたちの中にはもっと事情に通じている専門家はいないのか」と尋ねました。不倫についての聖書の取る立場があまりにも嫌だったので、質問者はそれを斥けて、もっと自分にとって都合のよい答えを聞きたくなったのでした。聖書の 多くの命令は、それらがまさしく「私たちが聞きたくないようなメッセージ」であるため、私たちにとって受け入れるのが難しいものなのです。なぜなら、聖書が言っていることとは違うことを私たち自身が行っているからです。そういうわけで「もうこのような聖書の命令は従う必要がないだろう」としばしば言われたりするのです。

聖書の中には「古びた命令」があるのでしょうか。つまり現代の世界ではもはや従う必要がなくなった命令があるのでしょうか。私たちよりも優れた回答者である「神様の御子」が正しい答えを教えてくださっています。
「私はあなたがたにまことのこと[1]を告げます。天地が消え去るまでは、すべてがなるまでは、律法から一点[2]、一画[3]もすたることはありません。」(マタイによる福音書5章18節)。聖書は神様の御言葉です。神様は変わりません。神様が言われたことも変わりません。神様が罪と定められたことは罪です。それは罪であったし、今も罪であるし、これからも罪です。たとえ私たちが「どうしてそれがもはや罪ではないか」よい説明をこしらえたとしても。あるいは、たとえ私たちが行っていることがあまりにも一般的でもはやそれが罪とはみなされてはいなかったり、少なくとも悪質の罪であるとはみなされていない場合であっても。神様をうそつき呼ばわりするのは神様を侮蔑することです。「(自分たちにとって都合の悪い)神様の御言葉のこの部分とあの部分はもはや有効ではない」などと考えている者は、神様をうそつき呼ばわりしています。大切なのは、「私たち人間は罪に堕落した存在であり、それゆえ正しいことと間違っていることとについての私たちの理解はおかしくなっていること」を強調することです。人間とは違って、神様は堕落なさったりはしませんでした。「神様は小さい罪と大きな罪とを分け隔てはなさらない」ということも覚えておいたほうがよいでしょう。神様の命じておられることを破るとき、私たちはいつでも大きな罪を犯しているのです。それがたとえ私たち自身にとってはどんなにとるに足りない些細なことに感じられたとしてもです。「地獄の火に投げ込まれるのが当然なのは人殺しだけではなく、他の人を馬鹿と言う者もそうである」とイエス様は教えてくださいました。神様の目には小さい罪も大きな罪です。そして、その逆ではありません。

聖書には私たちクリスチャンには直接かかわりがないことがらも確かにあります。かつて神様は旧約に属しイスラエルの民のみが従わなければならなかったいろいろな命令をお与えになりました。犠牲をささげることについての多くの規定はそのような命令であるし、「血を避けよ」という聖書の禁止命令も旧約の民に与えられた命令です。聖書自身「新約が結ばれた以上、これらの規定はもはや私たちにはかかわりがない」と言っています[4]。なぜなら、これらの規定には実はたったひとつの目的があるからです。それは人間を罪の呪いから解放して人間に義をもたらすことです。神様の御子が十字架で死んで、世界全体をその罪の呪いから解放し、皆のために義を備えてくださいました。それゆえ、モーセの律法の多くの規定にはもはや従う必要はなく、また従ってはいけないのです。それらに従うことはイエス様の死を侮蔑することです。なぜなら、それは自分自身の行いによって救いを得ようとする試みだからです。しかし、「救い」はイエス様が私たちにすでに確保してくださったのであり、救いを得るために私たちが何かを行うことなどまったくなしに、イエス様が私たちに賜物として与えたいと望まれているものです。

楽園で悪魔は人間が神様の御言葉を疑うように仕向けることに成功しました。悪魔は神様の明瞭な命令を迂回する言い訳を捏造し、人間が罪を行うようにさせました。同じように悪魔は今でも働きかけています。なぜ神様の御言葉のこれこれの箇所はまじめに受け取る必要がないか、悪魔は説明をひねりだします。聖書を軽んじたり、聖書が言っていることと異なることを行うように助言する「声」は悪魔の声です。たとえその声が教養があり理性的で愛に満ちているように感じられるものであったとしてもです。この問題の核心には「悪霊との戦い」があります。私たちは神様の聖霊様に聞き従っているでしょうか、それとも、悪魔の言うことを聞き入れてしまっているでしょうか。神様の霊は私たちを聖書に結び付けようと欲しています。それに対して、悪魔は私たちを聖書から引き離そうとします。 

命じられていることや禁じられていることが「すべて」聖書に基づいているわけではありません。人間が自分で作り出し、私たちがそれらに従うように強制してくる「言い伝え」が今もたくさんあります。もしも人間たちが作った命令が神様の御言葉と同じレヴェルに置かれ、それらに従うことを要求される場合には、神様の御言葉が侮蔑されていることになります。なぜなら、そのときには「人間の意見」が神様の御言葉と同等のものとみなされているからです。あなたが何かをやるように要求されたり、何かをやらないように禁じられたりするときには、聖書のどの箇所でこのように命じられているか、尋ねなさい。もしもそのような箇所が見つからない場合には、そのような命令に従う必要はありません。

神様の命令を破ることは危険です。それには3つの理由があります。
1)神様は聖なるお方です。神様の御言葉を無視することは神様の聖性を傷つけます。神様は長い間人間たちの愚かな行いを耐えてこられました。しかし、遅かれ早かれ神様はお怒りになります。神様の怒りはすでにこの世において人に個人的に向けられることもあれば、ある国民全体に向けられることもあります。しまいには、この世が終わり皆が神様の御前に立ち裁きが始まるときに、神様の怒りは神様の命令を侮蔑する者たちに向けられることになります。
2)神様の命令を破ることによって人は神様から引き離されていきます。罪が人の良心を汚し、やましい良心で生きている者は神様を避けるようになります。人間は神様の命令を破れば破るほど、それだけ遠く神様から離れていきます。それは人間に起こりうる最悪の事態です。なぜなら、本来人は神様と共に生きるために創られたからです。神様の命令を気にもかけない態度は神様から人間を最終的に隔離してしまいます。これが「滅び」と呼ばれるものです。
3)神様の命令は「命の律法」です。もしもそれらに従うならば、従わない場合よりもよりよくこの世で生きていくことができます。

神様の律法は「どうすれば正しく生きられるか」について語っています。それに加えて命令にはもうひとつの大切な使命があります。それらは「私たちがどのような存在であるか」をありのままに示す「鏡」のようなものです。「どのように私は生きるべきであるか」について聞くときに、「私は正しく生きているか」という難しい問題の前に立たされます。正直に自分とその生活を省みる人は誰でも、「自分が正しくは生きてこなかった」ことを認めるほかないでしょう。ある人はあるやり方で、またある人は他のやり方で、また各人が多くのやり方で神様の命令を破ってきたのです。神様はこうしたことを憎んでおられます。それゆえ、私たちは皆それぞれが神様の裁きを受けるのが当たり前の存在なのです。

「フィンランドには罪人が少ないね」と、日本で伝道していたある宣教師がフィンランドに帰ってきた折に言いました。これは「私たちフィンランド人はあまりにもよい人になったため、もはや罪人とは呼べない」という意味ではありません。その人が言いたかったのは「フィンランド人は自分自身を罪人とはみなしてはいない」ということです。その宣教師はフィンランド国内を伝道してまわったときに、人々が福音に対して驚くほどわずかしか興味を示さないことに気が付いたのでした。「この国では人々が自分の悪さを理解せず、それゆえ恵みも必要とは感じていないためだからだろう」とその人は結論しました。「フィンランドには罪人があまりにも少なく、それゆえ福音を求めている人もとても少ない」ことがどうしてか、私はわかるような気がします。神様の律法について宣べ伝えられることがあまりにも少なすぎるのです。あるいは、あたかも人は自分の力で神様の命令を完全に守ることができるかのような誤解を招く仕方で、神様の律法が宣べ伝えられているからです。律法の使命は、人を捕らえてその罪をあらわにし、その人も他のすべての人と同様に罪人であり滅びるのが当然であるような存在だということを明瞭に示すことです。そして、このことを理解した者は福音を渇望するようになります。

「神様の命令を宣べ伝えてはいけない。必要なのは「優しい福音」だけだ」と考えている人たちもいます。これは正しくありません!もしも神様の御言葉が私たちに正しい理解を教えてくれなければ、正しいことと間違っていることについて私たちの理解は前よりもいっそうあいまいになってしまいます。私たちは毎瞬間イエス様を必要としているのであり、とりわけこのことを理解するために、私たちは神様の命令が必要なのです。律法なしでは私たちは「自分がその生き方によって神様を喜ばせることができるほどよい人である」かのように思い込むようになります。しかし、このような思い込みのすぐそばに滅びが待ち受けているのです。律法はこの思い込みをなぎ倒し、私たちについての真実の状態、私たち自身の悪さ、を明らかにします。そして、私たちが自分の罪の赦しを願い求めまたそれをいただくように、私たちをイエス様のみもとに追いやります。

律法は必要です。しかし、律法は誰も救いません。なぜなら、神様に受け入れていただけるほど「十分に」神様の律法を完全に実行できる人は誰もいないからです。それでは、何が救ってくれるのでしょうか。それは「福音」です。神様の福音はイエス様と十字架についてのメッセージです。神様の御子は裁きを受けました。それゆえ私たちは裁かれません。イエス様は御自分を犠牲としてささげられました。それゆえ私たちはそのすべての罪を神様から赦していただきました。イエス様は神様の律法をはじめからおわりまで完全に実行なさいました。このゆえに神様は「イエス様に避けどころを求める者」を御自分にふさわしい者とみなしてくださいます。彼らは自分たちの生き方に基づくならば神様に対してふさわしい者などではありえないのにです。イエス様は私たちに御自分の死によって神様の恵みを確保してくださいました。それが私たちの守りとなり、私たちは聖なる神様の御前で耐え切ることができるのです。神様の恵みは「キリストのもの」である者にとって守りなのです。「キリストのもの」というのは、キリストに所属するものとなるべく洗礼を授けられ、キリストを信じている人のことです。救いは「賜物」です。私たちはそれを何かの「報酬」として受け取ることはできないしその必要もありません。その賜物は、それを受け入れたい人なら誰でもただでいただけるものです。「人がどんな存在であり、人は何を行うことができるか」ということとはまったく関係なしにです。自分が罪人であり裁きを受けるのが当然であることを理解した者は、罪の呪いから解放してくださったお方についての福音を受け入れます。律法は、それがどのように宣べ伝えられようとも、イエス様への信仰を生み出したりはしません。それを可能にするのは福音のみです。私たちは信仰を通して救われますが、その信仰を強めてくれるのは、律法ではなく福音です。

私はどこから神様の御意思を満たす力を得るのでしょうか。「どのように生きるべきか」について正確に厳しく知らされても、私にはそんな元気は出ません。力を与えてくれるのは福音です。すなわち、「どれほどたくさん神様は私を愛してくださったか、また愛してくださっているか」、ちゃんと私は知っているということです。神様から賜物として永遠の命をいただく人は、神様に感謝するものです。神様に感謝するということは、生活の中で神様の御心を実現することです。福音から、すなわち「神様の恵みのみによって私は救われる」ということから、私は「神様の御心に適う生き方をしたい」という力と意志とをいただきます。私に対して信じられないほどよいお方、「私の御父様」に対して私は忠実でありたいです。それと同時に、「私たちは決して完全になることなどはありえないこと、また完全に近づくことすらありえないこと」を心に刻んでおく必要があります。

信仰が生活を「制限」するのは確かです。クリスチャンとして生きることは「神様を畏れること」です。神様を畏れることは「私が神様に完全に依存している」こと、すなわち「私の命は神様が私に何を与えてくださるか、神様は私に対して憐れみ深いだろうか、によって完全に左右されている」ということを理解することです。それゆえ私は神様を怒らせたいなどとは夢にも思いません。もしも私が神様を怒らせて悔い改めないままでいるならば、神様は私を認めたりはなさらないでしょう。そして私にはありとあらゆる悪いことが起こるでしょう。神様は御自分の御言葉が無視されることを憎んでおられます。それゆえ私には神様の御意志を無視して生きていくような真似はとてもできません。そんなことをすれば聖なる神様を怒らせることになるし、それを私は恐れているからです。このように信仰は私たちの生き方に制限を与えます。私は自分が生きたい放題の生き方をすることはできません。しかし、神様の命令が定めている限界は「よい限界」なのです。それらは命を守っています。もしもそれらに従うなら、多くの悪を避けることができます。  



[1] 原語では「アーメン」。
[2] 原語では「イオータ」(ギリシア語の小さなアルファベット。英語のiに相当)。
[3] 原語の意味はアルファベットに付けられる「小さな飾りの記号」。たとえばイオータ・スブスクリプトゥム(ある種の長母音のアルファベットの下にくっついている非常に小さなイオータ記号のこと)。
[4] たとえばヘブライの信徒への手紙10章。