2017年8月28日月曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その7)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その7)

神様の恵みは聖餐の食卓(聖餐式)にのみ存在している、
ということではありません。
恵みはまた、
宣べ伝えられた福音や罪の赦しの宣言や洗礼の中にもあります。
神様の恵みは豊かです。
この同じ恵みが、神様が選ばれた多くの手段を通して、
私たちのところにもたらされます。
私たちはこれらのすべての手段を必要としています。
なぜなら、
神様の恵みが十分であるかどうかを疑う、という不信仰が
私たちの中にしつこく残っているからです。


聖餐式は罪の赦しをいただく場です。
それゆえ、
聖餐式へと心を整える正しい方法は、
自分自身の罪に気が付いて、
それを悔い、告白し、赦しを乞うことです。
この「悔いること」には、
私たちが罪から解放されるための力を
真剣に神様に願い求めることが含まれています。

2017年8月23日水曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その6)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その6)

聖餐式の最も難しいところは、その簡単さにあると言えるでしょう。

私たち人間は、
「どんなことであっても、それを得るためには、
自分で働いた報酬として受け取るべきだ」、
という考え方に慣れています。
そして私たちは、
こうした考え方を神様の恵みに対してもあてはめがちなのです。

「自分の生活から一番悪い罪だけを取り除くことができたら」、
「少なくとも数日間は普段よりも善い人間として生活することができれば」、
「十分に深く罪を悔いることができたなら」、
「悪い行いの償いをしたら」、
「長く熱心に祈るなら」、
「そうすればようやく、
私は神様のみもとに行くことができるし、
神様は私のことを憐れんでくださるだろう」、
などというように人は考える傾向があります。

しかし、神様の恵みは商売の取引の品とは違います。
それは「ただ」(つまり「無代価」)なのです。
神様の恵みを「買う」必要はまったくありません。
それを受け取るのにまったくふさわしくないような人も、
それをいただくことができます。
もしも私たちが神様の「ただの恵み」について何かしら理解したのなら、
それによって私たちは自分の信仰に堅固な基盤を得るのです。

「信じている」という感情が消えてしまったり、
「私はどうしようもない」とか
「自分の信仰は非常に弱い」と感じたりするときにも、
神様の恵みは変わることなく有効であり続けます。

私たちは自分自身をすっかり恵みにゆだねてよいのです。 

弱い罪人である私たちは、恵みに自らをゆだねながら
居心地よく生活していくことができます。

恵みにゆだねて私たちは
前に進む力が与えられ、天国に入って行くのです。

2017年8月11日金曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その5)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その5)


パウロは、聖餐はイエス様とのつながりである、と書いています
(「コリントの信徒への第一の手紙」10章16節)。
私たちの罪を帳消しにしてくださるお方と私たちとの間に
つながりが生まれるとき、私たちは
「自分たちの罪がすでに帳消しにされている」という「罪の赦しの恵み」を
実際に我が身にあてはめて受け取ることができるようになります。
すなわち、私たちはそのときに罪の赦しをいただくのです。
ルターは「聖餐にはどのような益があるか」という問題に対して、
「この聖礼典(ここでは聖餐をさしています)において
私たちには罪の赦しが与えられます」、と答えています。

聖餐式は罪の赦しの恵みを「作り出す」ものではなく、
すでに用意されているその恵みを「分け与える」ものです。
聖餐式はイエス様をくりかえし犠牲としてささげる場ではなく、
イエス様が一度限りの十字架の犠牲によってすでに確保してくださった恵みを
提供する場なのです。


人間にとってこれを理解するのはたやすいことではありません。
聖餐式で人は聖壇のもとに来てひざまずき、
祝福された聖餐のパンとぶどう酒を受け、罪の赦しをいただきます。
「神様の恵みがこんなに容易に得られるはずがない」と、
私たちは考えがちなのです。
人間には罪が隅々にまで染み付いているので、
人間が考えることは、
信仰にかかわる事柄に関しては正しく教えない「欺きの声」であるとも言えます。
しかし、
イエス様の御許に自らの罪をたずさえてきて罪の赦しを乞う人は、
すべて赦されます。
神様の恵みとは、まさにこれほどまでに単純なことである、
と聖書は教えているのです。

2017年6月30日金曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その4)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その4)


イエス様が本当に聖餐の中に存在していることを
信じるのが難しい場合があるのは、
聖餐式がとても地味なものだからでもあるでしょう。
聖餐を配るのは不完全な人間であり、
聖餐式の時に天から音声が響き渡るわけでもないし、
聖餐にあずかるのも罪深い人々の群れです。

ルター派の教会の信仰の教えは「十字架の神学」と呼ばれます。
神様はこの世では御自分の力を隠しておられます。
そして、神様が働かれているのは、
一見するとそのようには思えないところにおいてこそなのです。

私たちが信じるか信じないかにはかかわりなく、
イエス様は聖餐の中に臨在しておられます。
私たちの信仰が聖餐をつくりだすわけではありません。
聖餐をつくりだす(すなわち、聖餐を聖餐たらしめる)のは
神様の御言葉です。


どのようにしてイエス様がパンとぶどう酒の中におられるのかについて、
私たちルター派キリスト教信仰者は無理やり説明を試みようとはしません。
なぜなら、
聖書自身がそれについて何も語っていないからです。
私たちの好奇心がそのことについてもっと詳しく知りたいと思う場合でも、
聖書が明言している内容についてのみ語ることで満足するべきなのです。

(次回更新は8月になります。)

2017年6月5日月曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その3)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その3)


「「神の子」(イエス・キリストのこと)が
パンとぶどう酒の中に存在している」というのは、
単純すぎる迷信的な考えであると思われるものかもしれません。
天の御国において父なる神様の右の座におられるイエス様が
聖餐の中に臨在なさっていることや、
イエス様がいろいろな場所で行われている聖餐式に
同時に存在なさっていることを、
私たち人間の理性はおそらく理解しえないことでしょう。

こうした事柄を信じるのが困難であるのは、
私たちが聖餐式でイエス様にお会いしていることを
実感できないからでもあります。
イエス様がおられるならそれを感じるはずである、
と私たちは考えがちなのです。

しかし、私たちの理性や感情がどのようであろうとも、
神様の御言葉自体が何を言っているかを見つめて、
それを信じるべきなのです。
このようにすることで私たちは、
信仰を殺してしまう理性の乱用や、
私たちの信仰が自らの感情に左右されてしまう状態から
守られます。

信仰は神様の御言葉に基づくべきものです。
すなわち、
私たちは聖書が言っていることを信じる、ということです。
こうすれば、私たちの信仰は堅く保たれます。
神様の働きは私たち人間の感覚や理解に依存するものではありません。