2017年8月23日水曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その6)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その6)

聖餐式の最も難しいところは、その簡単さにあると言えるでしょう。

私たち人間は、
「どんなことであっても、それを得るためには、
自分で働いた報酬として受け取るべきだ」、
という考え方に慣れています。
そして私たちは、
こうした考え方を神様の恵みに対してもあてはめがちなのです。

「自分の生活から一番悪い罪だけを取り除くことができたら」、
「少なくとも数日間は普段よりも善い人間として生活することができれば」、
「十分に深く罪を悔いることができたなら」、
「悪い行いの償いをしたら」、
「長く熱心に祈るなら」、
「そうすればようやく、
私は神様のみもとに行くことができるし、
神様は私のことを憐れんでくださるだろう」、
などというように人は考える傾向があります。

しかし、神様の恵みは商売の取引の品とは違います。
それは「ただ」(つまり「無代価」)なのです。
神様の恵みを「買う」必要はまったくありません。
それを受け取るのにまったくふさわしくないような人も、
それをいただくことができます。
もしも私たちが神様の「ただの恵み」について何かしら理解したのなら、
それによって私たちは自分の信仰に堅固な基盤を得るのです。

「信じている」という感情が消えてしまったり、
「私はどうしようもない」とか
「自分の信仰は非常に弱い」と感じたりするときにも、
神様の恵みは変わることなく有効であり続けます。

私たちは自分自身をすっかり恵みにゆだねてよいのです。 

弱い罪人である私たちは、恵みに自らをゆだねながら
居心地よく生活していくことができます。

恵みにゆだねて私たちは
前に進む力が与えられ、天国に入って行くのです。