2017年8月11日金曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その5)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その5)


パウロは、聖餐はイエス様とのつながりである、と書いています
(「コリントの信徒への第一の手紙」10章16節)。
私たちの罪を帳消しにしてくださるお方と私たちとの間に
つながりが生まれるとき、私たちは
「自分たちの罪がすでに帳消しにされている」という「罪の赦しの恵み」を
実際に我が身にあてはめて受け取ることができるようになります。
すなわち、私たちはそのときに罪の赦しをいただくのです。
ルターは「聖餐にはどのような益があるか」という問題に対して、
「この聖礼典(ここでは聖餐をさしています)において
私たちには罪の赦しが与えられます」、と答えています。

聖餐式は罪の赦しの恵みを「作り出す」ものではなく、
すでに用意されているその恵みを「分け与える」ものです。
聖餐式はイエス様をくりかえし犠牲としてささげる場ではなく、
イエス様が一度限りの十字架の犠牲によってすでに確保してくださった恵みを
提供する場なのです。


人間にとってこれを理解するのはたやすいことではありません。
聖餐式で人は聖壇のもとに来てひざまずき、
祝福された聖餐のパンとぶどう酒を受け、罪の赦しをいただきます。
「神様の恵みがこんなに容易に得られるはずがない」と、
私たちは考えがちなのです。
人間には罪が隅々にまで染み付いているので、
人間が考えることは、
信仰にかかわる事柄に関しては正しく教えない「欺きの声」であるとも言えます。
しかし、
イエス様の御許に自らの罪をたずさえてきて罪の赦しを乞う人は、
すべて赦されます。
神様の恵みとは、まさにこれほどまでに単純なことである、
と聖書は教えているのです。