2017年4月19日水曜日

イエス様の十字架刑(下)

イエス様の十字架刑(下)

十字架の血の福音

イエス様が復活なさった後、
人々を罪の呪いから救い出す福音はあらゆるところへと伝えられていきました。
多くの者にとっては「十字架で殺された神様の御子」というメッセージは
愚かしく感じられるものでした。
十字架刑を一度でも見たことがある者なら誰であれ、
それがどのようなものか知っていました。
十字架につけられたキリストについてのメッセージは、
それを耳にした人々を躓かせました
(「コリントの信徒への第一の手紙」123節)。
すでに教会初期の頃のキリスト教徒の中にも、
神様の御子イエス・キリストには本来ふさわしくないはずの
このように凄惨な死に方について口をつぐむ人々がいました。
「イエス様が苦しんだのは外見だけで、実は肉体は苦しまずにすんだのだ」、
などと言い出す者さえいました。


こうした考え方とは反対に、イエス様の弟子たちは、
まさにイエス様の十字架の死の中に信仰の核心を見出したのです。
イエス様は神様の愛の御旨に対して最後まで忠実を貫かれました。
イエス様は十字架上で父なる神様に見捨てられ、呪われた者となりました
(「ガラテアの信徒への手紙」313節)。
イエス様は人々から侮られさげすまれるために、
十字架の上へと「挙げられました」(「ヨハネによる福音書」31415節)。
まさにこのようにして、
イエス様は御自分の上に私たちの罪のもたらす懲罰を
「私たちの身代わり」としてお受けになったのです。
私たちは次のような意味で、
イエス様と「持ち物」を交換することが許されました。
イエス様は、
私たちが自分たちの罪の報酬として受けるのが当然であるはずの神様の怒りを
代わりに引き受けてくださいました。
その一方で、私たちは、
イエス様が罪なき方の義の報酬として受けるはずの神様の愛を
代わりにいただいたのです(「コリントの信徒への第二の手紙」521節)。

2017年4月13日木曜日

イエス様の十字架刑(上)

イエス様の十字架の死と復活を記念するイースター(今年は4月16日)
を覚えて、「イエス様の十字架刑」についての説明を
これから2回にわたり掲載します。

イエス様の十字架刑(上)

著者 エルッキ・コスケンニエミ
(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
日本語版翻訳・編集者 高木賢
(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

イエス様の十字架刑には、周到な精神的かつ肉体的虐待が用意されていました。
茨の冠は、イエス様の頭を血だらけに引き裂いていました。
退屈な一日を紛らわすために、ローマ軍の兵士たちは、
本来なら人を打ちたたいて懲らしめるために用いられるはずの棒を
「王笏」に見立ててイエス様に持たせ、
赤い道化の王のマントを身にまとわせて、
イエス様を「ユダヤ人の王」に仕立て上げてからかいました。
こうすることで、
彼らは普段から侮蔑していたユダヤ人たちに対して
さらなる嫌がらせもしたのです。
この皮肉な態度は、
ピラトが書かせたイエス様の死刑の罪状書き
(「ナザレ人イエス、ユダヤ人の王」)からも伺えます。
当然のことながら、
「王」は真ん中の十字架に付けられ、
「王の臣下たち」
(イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗たちのこと)は
その両脇にはりつけになりました。


真昼になり、
のどの渇きに苦しんでいる人に「飲み物」として差し出されたのは、
すっかり酸っぱくなったぶどう酒でした。
前夜、イエス様は異常なほど厳しく鞭打たれていました。
おそらくまさにそのせいで、
すでにたくさんの血を失っていたイエス様は、
精神的な苦しみとあいまって十字架上で力を失い、
驚くほど早く死なれたのです。
そのため、
受刑者の死を早めるために脛骨を打ち砕く作業を、
イエス様に対して行う必要はありませんでした。
というのは、
死んで不自然に捻じ曲がったイエス様の身体は、
専門家だけではなく一般の人が見ても、
イエス様がすでに絶命していたことを告知していたからです。

何の気なしに兵士がイエス様のわき腹を槍でつついたとき、
そこからは水と血が流れ出ました。
現代の医学によると、
死んだばかりの人のわき腹からは水と血が湧き出ることがありうるそうです。

ローマの処刑者たちは、
「イエスは死んだのではなく、実は気を失っていただけだ」
と主張する者たち(そういう人たちが今もいます)に対して、
まともに取り合ったりはしないことでしょう。

彼らは十字架上で死んだひとりの男を目にしました。
「ユダヤ人の王」として通報された者が、
絵画などに見られる芸術的な美の世界とはかけ離れた
酷い苦しみの最期を遂げたのです。

2017年4月10日月曜日

「祭司」と「牧師」について(その2)

「祭司」と「牧師」について(その2)


一般祭司制

もはや旧約の世界の神殿祭司のように
犠牲をささげる必要はないにもかかわらず、
新約の世界においても祭司や牧師が存在しています。
ただし、その意味するところは
旧約聖書の犠牲をささげる祭司とは異なっています。

神様はイスラエルの民と特別な契約を結んだときに、
彼らに特別な「地位」をお与えになりました。
もちろん全世界の国民は皆、ひとしく創造主なる神様に属しています。
しかし、それらの国民の中において、
イスラエルの民はいわば全国民を代表する祭司のような存在でした。
神様の所有なさる民全体およびその成員ひとりひとりに与えられている使命とは、
神様の大いなるみわざを人々に告知することでした
(「出エジプト記」1956節)。
イスラエルの民全体は「祭司の王国」であり、「王直属の祭司階級」なのです。

新約聖書はこの「王直属の祭司階級」というテーマを
「キリスト教会」に当てはめています。
神様がお造りになった人間は皆、創造主の所有に帰するものですが、
キリスト教会には特別な使命が委ねられているのです。
それは、主の偉大なみわざを周囲に響き渡らせて人々を招き、
彼らが神様のみわざの不思議さに驚き入るようにすることです。
この意味では、キリスト信仰者は各々が、
男性も女性も、老人も生後間もない赤ちゃんも、
王直属の祭司階級の一員なのです。
すべてのキリスト信仰者の有するこうした地位は
「一般祭司制」あるいは「全信者祭司制」などとも呼ばれます。
このことをルターは聖書にしたがって、
「聖なる洗礼を受けることは祭司に任命されることである」、
と美しく表現しています。


すなわち、
神様の民の成員(ギリシア語で「ライコス」)は
皆それぞれ「祭司」なのです。
このギリシア語の言葉は、
フィンランドでは伝統的に「一般信徒」と訳されてきました。

2017年4月5日水曜日

「祭司」と「牧師」について(その1)

「祭司」と「牧師」について(その1)

原著者 エルッキ・コスケンニエミ
(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
翻訳・編集者 高木賢
(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

聖書の引用は原則として口語訳に拠っています。


フィンランドの教会では「女性牧師制」について
今日に至るまで議論がつづけられてきました。
意外なのは、この問題にコメントする多くの人は
ルター派の「職制」についての考え方の基本さえ知らないことです。
ルター派の理解では、
すべてのキリスト信仰者にかかわる「一般祭司制」と、
「牧者(すなわち牧師)の職制」との二つがあります。

フィンランドでも
この二つをあらわす言葉はそれぞれ別の言葉になりますが、
その意味内容は今ではすっかりあいまいになってしまいました。
宗教改革者マルティン・ルターは
教会の職制についての聖書の教えをはっきり理解したときに、
「祭司」と「牧師」とを明確に分けて考えるようになったのです。


旧約聖書の「犠牲をささげる祭司」

旧約聖書の祭司の使命は、
神殿でモーセの律法が定めた犠牲をささげることでした。
とりわけ「マラキ書」では、
この仕事は神様の御前で
その聖なる使命を意識して厳粛に執り行うべきものだが、
それが祭司の唯一の使命ではないこと、
を強調しています。

「祭司のくちびるは知識を保ち、
人々が彼の口から律法を尋ねるのが当然である。
彼は万軍の主の使者だからだ。」
(「マラキ書」2章7節、口語訳)


旧約聖書の祭司制の最も重要な使命が
「犠牲をささげること」であったのはまちがいありません。
とりわけこれは大祭司について、
そして大祭司が大いなる「贖罪の日」に犠牲をささげることについて
あてはまります(「レビ記」23章)。