2015年5月20日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 8章12〜17節 「神様の子ども」の資格を与える御霊(その1)


「神様の子ども」の資格を与える御霊 81217節(その1)


パウロはキリスト信仰者全員に、
自分たちが抱えている「膨大な負債」について思い起こすよう、
促しています。

この負債は律法に対するものではありません。
つまり、
「神様に受け入れていただける者となるために、
前よりもいっそう自分を厳しく律するほか道がない」、
という負債ではありません。

そうではなく、この負債は御霊に対するものです。
私たちは喜んで負債を御霊にお返しします。
つまり、私たちはいただいた罪の赦しを喜びます。

キリストのゆえに、
罪を赦された私たちは、膨大な賜物をいただいているのです。
ですから、私たちはこの負債を心に留めて、日常生活を送るべきです。 

悪魔とキリストが私たちの心の中で戦っている様を、私たちは見ます。
私は愛していますか、それとも、憎んでいますか。
罪を赦しますか、それとも、赦せる時が来るのをまだ待ち続けるつもりですか。
神様の御旨に従いますか、それとも、良心の声を消し去りますか。
私たちの毎日は、こういった大小さまざまなことをめぐる戦いの連続です。

身体の悪い行いを御霊の力によって封じるために、
パウロは私たちをキリストの側へと導き、悪魔に対抗するようにします。

2015年5月15日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 8章1〜11節 肉の律法と御霊の律法(その2)


肉の律法と御霊の律法 8111節 (その2)


神様の御旨、つまり神様の律法に従って生きることにより、
人間は神様の御前で義と認めていただけるはずでした。
しかしすでにパウロが述べたように、
これは誰にとっても不可能なことです。
それゆえ律法は、救いの道としては人間には役に立ちません。
それで神様は、もう一つの救いの道を人々のために開けてくださいました。
御自分の御子を人としてこの世に遣わしてくださったのです。
御子は自らの身体を十字架で犠牲として捧げることを通して、
罪深い存在であるすべての人間の
すべての罪のすべての罰を引き受けてくださいました。
こうして私たちは神様の義をいただきました。
キリストが私たちの身代わりとして
罪の呪いをすべて引き受けてくださったからです。


もっとも私たちは、
律法と完全に離れて生活しているのではありません。
人間は自分勝手な生き方をしてよいはずがないからです。
しかし、何かがすっかり変わったのも確かです。

「戒めに従うのは難しい」、と文句を言って自分の欲望に押し流され、
罪深い生活に陥ってはいけません。
私たちは神様から聖霊様という賜物をいただいていますが、
「肉」すなわち人間存在は、いつであれ神様とその戒めに反抗します。

ところが御霊をいただいている人間は、神様と仲良く生きています。
その一方で、他の人と同様にキリスト信仰者にも、
依然として罪深い肉がつきまとっているのも確かです。
この肉は罪深さのゆえに死の裁きの宣告を受けています。

私たちの身体はいつか必ず死を迎えるので、
誰もこの死から逃れることはできません。
しかし、私たちのためにはキリストの御霊がおられます。
この御霊は、私たちが罪と戦うように導いてくださいます。
私たちは、罪深い者であるとともに聖とされた者でもあるのです。

そして神様が、
御霊によって死者の中から私たちの死せる身体を復活させて、
真の勝利者となられます。
このことが実現する時に私たちの戦いはようやく終わり、
私たちは完全に聖なる者とされます。

2015年5月8日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 8章1〜11節 肉の律法と御霊の律法(その1)

神様の守りの中で

「ローマの信徒への手紙」8


肉の律法と御霊の律法 8111節(その1)

パウロは、この章のはじめに今までの内容を要約しています。
次の文は暗唱するべきものです。

こういうわけで、今やキリスト・イエスのうちにいる人々は
罪に定められることがありません」(1節)。


ここには、世界の歴史全体における大いなる転換点が記されています。

他の人々は全員が神様の怒りと裁きの下にあります。
他のどのようなものも神様には認めていただけません。
真面目な生き方、涙、考え、正直さでさえも十分ではありません。

人がキリストに属していることだけが、
その人を罪の圧政下から救い出してくれるのです。
「天の御国はゴルゴタのところでは開かれているが、
他の場所ではしっかり閉じられている」、
と昔のキリスト信仰者は言いました。

パウロは御霊の律法と死の律法について書き進める時に、
深い考察を加えなければよく理解できないような書き方をしています。
しかし、次のことについては誰にでもわかるように書かれています。

キリストのゆえにあなたは神様の子どもでいられるのであり、
他のどのようなやりかたや理由によっても
この立場を得ることは決してできない、ということです。

2015年5月4日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(7章)


終わりのメッセージ(7章)

「このようにして、私自身は、
心では神様の律法に仕えていますが、
肉では罪の律法に仕えているのです」
(「ローマの信徒への手紙」725節より)。

これは、
同じ一人の人間が「神の律法」と「罪の律法」とに同時に仕えている、
というとても明確なメッセージです。
人は義とされた存在であると同時に罪深い存在でもある、ということです。

ただしパウロはここで、
「私の心は」神の律法に仕えています、とも、
「私の肉は」罪の律法に仕えています、とも
言ってはいないことに注意しましょう。
「私は」、とパウロは言っています。
つまり、同じ人格である一人の人間、「私」という全存在が
同時に二面的な事柄に仕えているのです。
そういうわけで、
彼は自分が神の律法に仕えることができることを感謝するとともに、
罪の赦しをも願っています。
なぜなら、彼は罪の律法にも仕えているからです。
しかしこれは、
肉的な存在である人間が神の律法に仕えている、
という意味ではありません。

私が先ほど言ったことを思い出してください。
神聖なるキリスト信仰者たちは、
同時に、罪深い存在でもあり義とされた存在でもあります。

彼らは義とされています。
なぜなら、
彼らはキリストを信じており、
彼らを覆うキリストの義を「彼らの義」として
父なる神様が認めてくださっているからです。

しかしその一方で、
彼らは依然として罪深い存在でもあります。
なぜなら、
彼らは律法を完全に守ることも
罪深い欲望をもたずに生きることもできない、
いわば医者にかかりっきりの病人に等しい存在だからです。

実際、彼らは依然として病気なのですが、
その一方では病の癒しも始まっているので、
いつか健康になるという希望ももつことができます。
つまり、彼らは治りかけの患者のようなものであり、
今後の健康は予断を許さない状態にあります。
処置の仕方によっては、
以前よりも症状が悪化する可能性もあるからです。


(マルティン•ルター 「ローマの信徒への手紙についての講義」より)