2014年10月24日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章1〜4節 聖めの基としての洗礼(その1)


聖めの基としての洗礼 614節(その1)

前回に述べた誤解を解くために、パウロは洗礼について説明し始めます。
パウロはローマに行ったことがなく、
そこの教会の状態についてもよく知りませんでした。
しかし、教会のすべての人が洗礼を受けていることは、
パウロにとって自明でした。
洗礼は、キリスト教信仰の始めからあったことなので、
洗礼を擁護する弁舌を振るう必要がなかったのです。


洗礼の意味について、パウロは短く説明します。
洗礼を通して、私たちはキリストに結わえられます。
この関係は生死を共にする深い絆です。
洗礼はキリストの死に結わえられることでした。
私たちは洗礼を受けた時に、キリストと共に埋葬された、
とパウロは言います。
彼が言う「古い人」とは、洗礼を受ける前の私たち人間の状態のことです。

この古い自分が十字架につけられ、ゴルゴタでイエス様と共に死んだのです。
神様がイエス様を死者の中から復活させたので、
イエス様と同じようにして、私たちもまた、
いつか必ず死者の中から復活することになります。
私たちの罪は、キリストの死を通して、
その罰をすでに受け、帳消しになっています。
洗礼は、この贖いの御業が私たちにも確実に適応されるようにしてくれます。

2014年10月15日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章 はじめに(その2)


洗礼と聖め

「ローマの信徒への手紙」6

はじめに(その2)

ここでパウロは、起こりうる誤解について触れます。
それは、
もしも神様の恵みが、私たちが罪を行う度に、
ただひたすら大きくなって行くものだとしたら、
どうして罪を行わないでおく手があろうか、
という間違った理解です。

この上、何のために罪と戦うのか。
どのようなことが罪で、どのようなことが罪ではないか、
吟味する必要が本当にあるのか。
そんなことをすれば、神様というお方を、
私たち人間の些事を詮索する小心者と見なすことになりはしまいか、
といった考え方です。

すでにパウロの時代にも、多くの人が
福音の与える自由というものを、
自分が好き勝手に生きる自由として理解していたようです。
多くの箇所で、パウロはこのような理解の仕方に反対しています
(例えば、「ローマの信徒への手紙」38節を参照してください)。

アブラハムは信仰によってではなく、行いによって義とされた、
という「ヤコブの手紙」のよく知られた箇所(2章21〜23節)は、
ここでの「罪との戦い」に関係しています。

自分をパウロの弟子と見なす者たちの中には、
神様の尊い恵みを実質的にはゴミ同然なものに貶める
自堕落なキリスト教徒の生き方をして、悪い模範を示す人々もいました。


2014年10月8日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章 はじめに(その1)

洗礼と聖め

「ローマの信徒への手紙」6

はじめに(その1)


パウロは5章を、次のような素晴らしい福音の言葉で閉じます、
「罪が大きくなったところでは、恵みも満ちあふれるものとなりました」
520節)。

神様の律法が私たちの心に触れる時、
私たちは神様の御前で、罰せられるのが当然の罪人である、
という自覚を与えられます。

聖書にもあるように、神様は、
親が悪いことを行った場合、
しかも、その子孫に当たる者たちが神様を憎んでいる場合には、
彼らに対して、
その親の悪行にゆえに何代にもわたって罰を加えられる方です。

しかし、その一方で、福音は、
キリストの十字架を私たちに思い起こさせ、罪の赦しについて語ります。
こうして、地獄と神様の怒りとは脇に退きます。
そして、その後に残るのは、
私たち罪深い者に対する、神様の燃えるような愛だけになります。

「私は、主、あなたの神、熱情の神であるから、
父たちの罪について、私を憎むその子たちに対して
三代、四代にわたって罰を与えます。
しかし、私を愛し、私の戒めを守る者たちに対しては、
千代に至るまで恵みを施します」(「出エジプト記」2056節より)、
と書いてある通りです。

2014年10月3日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(5章)


終わりのメッセージ(5章)

古いアダムはあいもかわらず

古いアダムは断食についての話を耳にしました。
彼はフッと笑って、慣れた素振りで身をかわしました。
そして、またしても傷を負わずに済みました。
しかもその際、彼はキリスト教的に見える理由を持ち出したのです。

キリストの復活を祝するイースターに先立つ時期である受難節は、
「断食の時期」とも呼ばれます。
十分な栄養が摂取できない時代に、
断食はイエス様や使徒たちや他のキリスト信仰者たちにとって必要なことでした。

「でも、高い生活水準の世界に住んでいる私には関係のない話だね」
(アダム)。

十字架にかかったイエス様は渇いた口で、「私は渇く」、と言われました。

「でも、私がコーヒーを飲む習慣については、誰にも文句なんか言わせないぞ」
(アダム)。

イエス様が大祭司の尋問を受けていた時には、鶏の鳴く声が唯一の音楽でした。

「ステレオでお願いね」(アダム)。

救い主は、あざけられ暴力を受ける前に、みすぼらしい衣を着せられました。

「今流行の服以外を着るなんて、考えられない」(アダム)。

朝早く聖書を読むのは、もちろんよいことです。

「ありがとう。でも、新聞の方がもっと興味深い」(アダム)。

イエス様は自分を捕らえに来た敵対者たちに向かって、落ち着いて話されました。

「私が呪いの言葉をぶつける相手は、そうされるのが当然の奴らなのさ」
(アダム)。

必要とする人々に自分のお金を定期的に分け与えるのは、道理にかなっています。

「自分が心から喜んでお金をあげられるようになる日を待つとしよう」
(アダム)。

どうして、ほかでもない私が節制して生きて行かなければならないのでしょうか。

「私は恵みによって救われているんだからさあ(そんなこと必要ないよね)」
(アダム)。

レイノ ハッシネン(一部変更しました。訳者)