2014年10月15日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章 はじめに(その2)


洗礼と聖め

「ローマの信徒への手紙」6

はじめに(その2)

ここでパウロは、起こりうる誤解について触れます。
それは、
もしも神様の恵みが、私たちが罪を行う度に、
ただひたすら大きくなって行くものだとしたら、
どうして罪を行わないでおく手があろうか、
という間違った理解です。

この上、何のために罪と戦うのか。
どのようなことが罪で、どのようなことが罪ではないか、
吟味する必要が本当にあるのか。
そんなことをすれば、神様というお方を、
私たち人間の些事を詮索する小心者と見なすことになりはしまいか、
といった考え方です。

すでにパウロの時代にも、多くの人が
福音の与える自由というものを、
自分が好き勝手に生きる自由として理解していたようです。
多くの箇所で、パウロはこのような理解の仕方に反対しています
(例えば、「ローマの信徒への手紙」38節を参照してください)。

アブラハムは信仰によってではなく、行いによって義とされた、
という「ヤコブの手紙」のよく知られた箇所(2章21〜23節)は、
ここでの「罪との戦い」に関係しています。

自分をパウロの弟子と見なす者たちの中には、
神様の尊い恵みを実質的にはゴミ同然なものに貶める
自堕落なキリスト教徒の生き方をして、悪い模範を示す人々もいました。


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