2014年3月10日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 人類の誤謬のもたらしたもの(その3)

 
人類の誤謬のもたらしたもの(その3)
 
 
フィンランドの教会では、同性愛について盛んに議論されてきました。
聖書がきわめて明瞭かつ厳格に
同性愛の性的関係を禁じていることについては、
疑いの余地がありません。

ある人たちは、聖書のメッセージを
「キリスト教的な許し」の名の下に変更しなければならない、
と考えています。

また、同性愛の問題について愛に欠けた言動を取る人たちもいます。
彼らの厳しい言葉は、
自分の同性愛の傾向のゆえに悩み苦しんでいる人々にとっては、
聴くのが辛いものでしょう。
このような「律法の説教」は、
ごく一部の教会員の心にしか触れませんでした。
他の大多数の人々は、
「自分たちは他の人々よりも少しはましな存在だ」、
と思い込んでいますが、
それは大きな間違いです。

同性愛の問題については、
聖書が禁じている他のすべての事柄についてと同じことが当てはまります。
私たちはそれぞれ、自分なりの特別な弱さを抱えています。
お酒に溺れる人もいれば、
陰口を叩く傾向をもつ人もいます。
物惜しみするあまり、盗みに近いことをする人もいます。
しかし、私たちは、
自分のもつこれらの傾向を容認するべきではありません。

「酔っぱらいキリスト者教会」、
「脱税キリスト者協会」、
「家庭内暴力キリスト者協会」
などというのは、
「同性愛キリスト者協会」と全く同様に、常軌を逸した団体です。

2014年3月7日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 人類の誤謬のもたらしたもの(その2)


人類の誤謬のもたらしたもの(その2)
 
  
フィンランドでは、パウロの用いた「取り替える」
2526節にでてくる動詞、ギリシア語でメタラッソー)という言葉に、
この箇所の解釈の鍵を求める人たちがいます。
それによれば、
この箇所で裁かれているのは、
故意に自分の性的な傾向を変更した同性愛者だけであり、
もともと性的なアイデンティティーが同性愛的である人々に対しては
この箇所は適用されない、
というのです。

このような解釈が見当違いであることは、
パウロが偶像礼拝に関しても
「取り替える」ことについて語っていることからもわかります。

パウロがここで意味しているのは、
異邦人は各々、活ける神様に仕えるのをやめて、
例えばユピテル(古代ローマの宗教の主神)を礼拝するように
故意に態度を変更した、
ということではありません。

また、
故意に礼拝の対象を変更した人々だけが
偶像礼拝の罪によって罰せられる、
という意味でもありません。

パウロは、あらゆる同性愛の性的関係を、
結婚以外の異性間の性的関係とまったく同様に、
断固として否定しています。


2014年3月5日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 人類の誤謬のもたらしたもの(その1)


人類の誤謬のもたらしたもの(その1)


人々は神様を捨てて、
神様の備えてくださった救いの道から迷い出てしまいました。
これは不幸な結果を招くことになりました。
神様は、人類が罪の中で生きるままになさったからです。
2932節でパウロは、
人間の置かれた現実の状態を容赦なく暴き出しています。
神様を捨てた結果として、
人間には、ありとあらゆる罪と、そのもたらす悲惨が、
つきまとうようになりました。


ひどい罪の例としてパウロは、
同性愛をあげています(12627節)。
これは、パウロの生きていた時代において適切な実例でした。
現代でも、これが適合する状況になってきています。

ユダヤ人たちは、モーセの律法に基づく判断から、
同性愛が絶対に神様の是認されない
激しい嫌悪の対象であることを知っていました。
ところが、「教養」のある異邦人知識人たちは、
同性愛の中に、特別に洗練された美的な生き方を見ていました。
ですから、
人類の盲目さを示すにあたり、パウロがあげたこの実例は、
まさに最も適切なものだった、と言えます。
すなわち、
神様の御前では
重い罪であり、自然の秩序に反することが、
人間の考えによれば
容認されるべきものであるだけではなく、
美しいとさえ見なされる、ということです。

2014年3月3日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 1章18〜32節 どうすれば神様を知ることができるのでしょうか(その2)


どうすれば神様を知ることができるのでしょうか 11832節(その2)
  
 
しかし、ここで今パウロは、
私たちが自然に有している神様についての知識(一般啓示)が、
実は不完全なものであることを示します。
はじめに、人は、
造物世界の観察を通して得られた知識によって、
神様を知って、
神様に栄光を帰すようになります。


しかし、神様が御自分のことを
創造の御業を通して啓示なさったにもかかわらず、
彼らは神様にお仕えしませんでした。
その代わりに、
彼らは偶像に仕え、唯一の真の神様を捨てました。
それゆえ、神様もまた彼らをお捨てになりました。
こうして、人間界は、
そのままではまったく希望がない状態になってしまいました。
人は神様を捨て、
神様も人を捨てられたからです。

神様御自身がこの悲惨な状況を変えてくださらなければ、
人は神様を決して見いだすことができません。
このことに関しては、人間のいかなる知恵も善意も無意味なのです。
人がどれほど立派であったとしても、
あるいは、どれほど知能が高かったとしても、
神様の啓示である聖書を学ぼうとしない限り、
人は神様を知るようになりません。

聖書を通して神様が
御自分について人間に告げ知らせてくださった内容を、
キリスト教神学では「特別啓示」と呼び、
前述の「一般啓示」と区別しています。
この特別啓示こそが、
三位一体なる神様の真のお姿を私たちに知らせてくれるのです。