2014年1月20日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 20章19~23節 弟子たちの派遣


弟子たちの派遣 201923


イエス様の弟子たちは、
依然として恐怖におののいていました。
閉じられた戸をものともせずに、
イエス様は弟子たちの只中にあらわれて、
平和の挨拶をなさいました。
主は手と脇の傷口を弟子たちにお見せになると、
弟子たちは喜びました。

それから、弟子たちの派遣の話に移ります。
イエス様御自身は、天の御父様によって遣わされました。
今度は、イエス様が弟子たちを派遣する番になりました。
この派遣は、
人間の力にたよるものではなく、
聖霊様の力により頼むものでした。

派遣の際して、
最後の審判の裁き主でもある人の子は、
その恵みの王国の中で、
御自分が有する裁きの権能を弟子たちも行使できるように、
なさいました。

すでに西暦100年頃の教会には、
これらのイエス様の言葉に基づく
罪の告白とその赦しの宣言を行う仕方が整っていたことが、
知られています。

2014年1月13日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 20章11~18節 二つの言葉


二つの言葉 201118



マグダラのマリアが天使を見たのは、
復活の主との出会いの序章に過ぎませんでした。
この出来事の描写は非常に美しく感動的です。
その中心には、二つの言葉があります。
空っぽの墓や天使を見ても、マリアは主の死をただ泣くばかりでした。
イエス様が目の前にあらわれても、彼女の悲しみは晴れませんでした。
「マリアよ」、というイエス様のたった一言によって、
彼女は相手が主だとわかり、以前と同じように「先生」、と呼びかけました。
この言葉は、ヘブライ語(より正確に言えばアラム語)で
聖書のこの箇所に収録されています。
そのためもあって、この光景からは、
多くの人々にとってイエス様がかけがえのない存在になったその理由、
すなわち、「イエス様の暖かさ」が伝わってきます。

多くの聖書釈義者がやっているように、
「私はまだ御父様の御許に上ってはいない」(2017節)
という言葉の意味を詮索するのは、実はあまり意味がありません。
たとえば、「イエス様はこの出来事の後でようやく天に上られた」
などという解釈もありますが、
それはとりあえず置いて、
イエス様の言葉の中の一番大切なことに関心を集中するべきです。
すなわち、
イエス様が、今やその使命を果たされたおかげで、
イエス様の御父は私たちの御父に、
イエス様の御神は私たちの御神になられた、
ということがそれです。
世が滅びないようにするために、神様の独り子が犠牲となられました。
御子は命を失い、そして、再び受けられたのです。

2014年1月10日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 20章1~10節 空っぽの墓で


キリストの復活

「ヨハネによる福音書」20

空っぽの墓で 20110



朝早く墓を訪れたマグダラのマリアは、
墓の入り口の石が取り除けてあるのを目にしました。
彼女はすぐさまイエス様の二人の大切な弟子のもとへと急ぎました。
当然ながら、墓に最初にたどり着いたのは、
「イエス様の最愛の弟子」、主の復活の証人でした。
「ヨハネによる福音書」が語る復活の出来事の細部は、
重要な意味をもっています。
それぞれの福音書は、
空っぽの墓の出来事で誰がキリストの復活の証人になったか、
語っています。
復活の証人のリストのうちで最古のものは、
パウロを通して私たちに残されました
(「コリントの信徒への第一の手紙」15111節)。
これらの証言は互いに矛盾しているわけではありません。
「ヨハネによる福音書」でも、
マグダラのマリアは一人で墓に行ったとは書かれていません。
また、彼女はペテロともう一人のイエス様の最愛の弟子のところに行って、
「彼らは主を墓から取り去りました。
どこへ置いたのか、私たちはわかりません」、
と言っています。
つまり、「ヨハネによる福音書」では、
マグダラのマリアは一人で墓のところにいたのではありません
(「マタイによる福音書」281節と
「ルカによる福音書」2410節を参照してください)。
空っぽの墓にあったものは何でしょうか。
ペテロは、イエス様の最愛の弟子と同じものを目にします。
しかし、その意味がわかりません。
イエス様の最愛の弟子がようやく、
イエス様の頭に巻いてあった布が
きちんとくるまれて置かれている意味を理解します。
イエス様の身体は盗まれたわけではなかった、ということです。
そして、イエス様の最愛の弟子は「信じました」。
この言葉がここでどのような意味であったにせよ、
この時、復活信仰の最初の一筋の光が暗闇の世を照らし始めたのでした。
もっとも、まだこの段階では、
まだすべてが明らかにされているわけではありません。

2014年1月8日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第18回目の質問


「ヨハネによる福音書」1819
 
18回目の質問


イエス様は捕らえられ、死刑の判決を受け、十字架に架けられます。

1)なぜイエス様の受難の歴史について
4つの福音書の描写があるのでしょうか。
受難史の記述に関して、
「ヨハネによる福音書」と「マルコによる福音書」との間には
どのような共通点と相違点があるでしょうか。

2)なぜイエス様の敵対者たちは、
ユダの裏切りを利用してイエス様を捕まえようとしたのでしょうか。
なぜ彼らは、街角でイエス様をさっさと逮捕しなかったのでしょう。

3)なぜアンナスとカヤパという二人の大祭司の名が
ここで出てくるのでしょうか。

4)ファリサイ派とサドカイ派は、
それぞれイエス様とどのような関係にあったでしょうか。
比較してください。

5)ペテロは周りの人に、
「イエスなど知らない」、と言います。
彼のこうした態度には納得がいきますか。
閉じられた中庭で敵に囲まれ焚き火にあたっていた
彼の状況を思い浮かべてみてください。
あなたなら、このような場合にも
イエス様を周りの人に告白する勇気があるでしょうか。

6)あなたは日常生活の会話の中で、
イエス様を信じていることを告白する勇気が十分にありますか。
あなたは何を恐れていますか。
あるいは、なぜあなたは恐れないのでしょう。

7)ポンテオ・ピラトはどのような人物でしたか。
彼はどのような職歴の持ち主ですか。
また、彼はユダヤ人に対してどのような態度をとりましたか。

8)どういうわけでユダヤ人はイエス様を憎んだのでしょう。
ローマ人に対して彼らは、
イエス様のことを別の理由をつけて責めました。
その理由とは何でしょうか。

9)「真理とは何か」、
とピラトはイエス様の言葉に返答し質問しました。
ただしピラトは、何が正しくて何が間違っているか、
という問題を真剣に取り扱う気はなく、
彼が陥ったやっかいな状況から
何とかして逃れる方法を模索していたのです。
真理に関する問題は、
私たちにとってどのような意味を持っているでしょうか。

10)イエス様が鞭打たれたことには、
どのような意味があったのでしょうか。
ピラトの意図していたことは何でしょうか。

11)なぜユダヤ人たちは、
イエス様とその他の二人の死刑囚とを
速やかに十字架から降ろそうとしたのでしょうか。
なぜイエス様を急いで墓に埋葬しなければならなかったのでしょうか。

12)多くの者がおびえている中で、
数人の人々が勇気を持って行動に移りました。
「ヨハネによる福音書」で、ニコデモは以前にも登場しています。
それはどのような状況でしたか。


13)イエス様は、
普通の人間が死ぬようにして死んで、墓に収められました。
とりわけ中世の人々は、受難をテーマにした賛美歌の中に、
イエス様が死んでくださったおかげで、
イエス様を信じる者は一人孤独に
(死という)未知の世界に踏み込まなくてよいことに、
大きな慰めを得ていました。
ところで、あなたは死を恐れていますか。