2013年9月11日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第15回目の質問



「ヨハネによる福音書」151節~164

15回目の質問


イエス様はぶどうの木です。
イエス様とつながることによってのみ、人は救われます。

1)イエス様はぶどうの木について話されます。
旧約聖書のどの箇所がこの教えの背景にあるのでしょうか。

2)私たちはしばしば、
頭の知識と、真のキリスト信仰者の生活とを、
正反対なものとみなしています。
「ヨハネによる福音書」15章に基づいて、
このような考え方が正しいかどうか判断してください。

3)私たちはしばしば、
愛と、聖書に書かれている御言葉に従うこととを、
区別して考えがちです。
しかし、今イエス様はこう言われます、
「もしもあなたがたが私の戒めに従うならば、
あなたがたは私の愛の中に留まっています。
ちょうど私が天のお父様の戒めに従い、
その愛の中に留まっているのと同じように」。
この御言葉を聞いて、
あなたがたにはどのような考えが浮かびますか。

4)この世は御自分に属する人々を憎んでいる、
とイエス様は言われます。
この御言葉が明瞭に実現したのを、
いつ見たことがあるか、考えてみてください。

5)いつ教会は、最も多くの犠牲者の血を流した迫害を受けましたか。
キリスト教徒たちが今一番生きていくのが難しいのは、
どのような場所でしょうか。

2013年9月9日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 15章18節~16章4節 世はイエス様に属する者を憎む(その2)



世はイエス様に属する者を憎む 1518節~164節(その2)


イエス様の言葉は、
現代の人々にとっては厳しすぎるように聞こえるかもしれません。
しかし、これは細部にいたるまでその通り実現してきたことなのです。
教会の初期の歴史がいかなるものだったかについて、
ある教父が次のように説明しているのは故のないことではありません、
「真理と真理に対する憎しみとが同時にこの世に来た」(テルトゥリアヌス)。
イエス様が捕らえられたとき、弟子たちの群れは打ち散らされました。
イエス様の復活と聖霊様の降臨によって立ち直った彼らは、
その後、勇気をもってイエス様をキリストと告白しましたが、
その結果として、脅迫され、虐待され、流血の死という仕打ちを受けました。
最初の300年間、教会は絶えず迫害に晒されてきました。
ある時はローマ帝国の組織的な迫害、
またある時は特定の地域で突発した迫害が起きました。
どちらの場合でもその背景にあったのは、
神様に属する者たちに対する悪魔の決して消えることのない憎悪でした。
この憎しみは後にもいろいろな時代にこの世の様々な場所で具現化しました。
例えば、二十世紀には、
ナチスと共産主義者たちがこぞってキリスト教信仰を迫害しました。
私たちの身近な場所では、
この世の憎しみは他の形を取ってあらわれています。
例えば、聖書に基づく信仰は軽蔑され、疎んじられています。
しかし、どのような手段に訴えたところで、
この世から信仰を根こそぎにすることはできませんでした。
本来は御自分のものであるはずのこの世に
キリストが再び帰って来られる時まで、
信仰はこの世に存続します。
私たちのなすべきことは、キリストの愛に留まりつづけることです。
たとえそのことによってどのような代価を支払うことになるとしても。

2013年9月4日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 15章18節~16章4節 世はイエス様に属する者を憎む(その1) 



世はイエス様に属する者を憎む 1518節~164節(その1)
  
 
イエス様が宣べ伝え、終わりまで実行された愛は、
この世の悪と関わりを持たない、
絵に描かれたような牧歌的な風景などではありません。
この愛は、この世の外側から、父なる神様の心から来ているものです。
この愛は、この世の外部に由来するものなので、
この世ではひどく憎まれるのです。
憎しみの焦点となるのは、イエス様の十字架です。
この世は、イエス様の教えと奇跡とを認めずに、
イエス様を憎み、十字架につけたので、
この憎しみは、否応なく二つの方向に反射されていきます。
まず、この憎しみは、愛の泉なる父なる神様に反射します。
復習しましょう。
イエス様を拒む人は、神様とのつながりも切れてしまっています。
この世がイエス様に対して抱くもう一つの憎しみは、
主の愛に基づいて生きていこうと心に決めた人々、
すなわちキリスト信仰者たちに対しても反射されます。
この世とキリスト信仰者との間には、共通の理解がありません。
今までもそうだったし、またこれからもそうです。
結局のところ、この世はいつでも、
キリストを信じ、キリストを愛していることを告白する人々を
疎んじ、憎み、迫害するものです。
キリストに属する人々は、彼らの主御自身と同じ扱いを受けます。
彼らは迫害され、シナゴーグ(集会堂)から追放され、
さらには殺される場合もあります。
しかも、殺す者たちは、
自分たちのやったことが正当であり、神の御心に適うものである
とさえ、思い込んでいるのです。

2013年9月2日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 15章1~17節 イエス様を介してのみ、人は神様とつながることができます(その3) 



イエス様を介してのみ、人は神様とつながることができます 
15117節(その3)


イエス様の言葉は、
私たちが隣人愛について話し合うときに頻出する
二つの問題について再考を促します。

第一の問題は、
私たちは頭の知識と隣人愛とを互いに正反対なものと見なしがちである、
ということです。
しかし、ここでの箇所を今まで読んできた人は、
そのような対置が意味をなさないことに気づくことでしょう。
正しい知識とイエス様とのつながりとは、
隣り人を愛する方向に私たちを導いていくからです。
もしもそうならないなら、
その人は明らかに間違った知識をもっているのです。
残念なことに、私たちのキリスト信仰者としての生活態度は、
しばしば薄っぺらで無気力なものとなっています。
そのような状態になる理由は、
私たちが頭の中にだけ正しい知識をたくさんもっているからではなくて、
私たちが愛に満ちたキリストの視線を見失ってしまったために、
キリストの愛に基づいて何も実行できなくなっているからなのです。
もしも私たちキリスト信仰者の信仰生活が無気力なものだったり、
冷酷さを帯びたものだとしたら、
実のところ、私たちは
イエス様の十字架に基づいて信仰生活を送ってはいないことになります。

次に問題なのは、
現代の私たちは隣人愛と聖書に書いてある戒めとを
別々に切り離して考えるようになってしまっている、
という現状です。
一方では、律法主義的なキリスト信仰者が聖書を法律書のように読んでおり、
他方では、愛の大切さに気がついたキリスト信仰者が戒めを無視し、
愛の行いに関心を集中する、といった具合です。
こうした矛盾もまた、「古いアダム」の引き起こす問題です。
イエス様の教えによれば、
主の御心に従おうとするところに、
主への愛は具体的な形を取ってあらわれます。
神様の御言葉は、大部分のケースでは、
主の御声を真剣に聴き取ろうとする者にとって、しごく明瞭な指示です。
それに対して、自分の頭に頼って生きたい者にとっては、
どの戒めも意味が曖昧で実行不可能なものとなってしまいます。