2024年12月17日火曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節 教会を指導していくための手引き(その2)

 教会を指導していくための手引き(その2)

「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節

 

「わたしは、

神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、

おごそかにあなたに命じる。

これらのことを偏見なしに守り、

何事についても、不公平な仕方をしてはならない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章21節、口語訳)

 

テモテは公正でなければなりませんでした。

信仰にかかわる霊的な事柄を指導するときにとりわけ重要なのは公平さです

(「ローマの信徒への手紙」2章11節)。

特定の人々を優遇するという不公平が現代でもしばしば起きているのは

たいへん残念なことです。

 

「軽々しく人に手をおいてはならない。

また、ほかの人の罪に加わってはいけない。

自分をきよく守りなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」5章22節、口語訳)

 

按手を授ける者は按手を受ける者について責任を負います。

按手を受けて教会の職務を委ねられた者が

不適格であることが明らかになった場合、

按手を授けた者が按手を受けた人物の適格性を

あらかじめ十分に吟味しなかったことになるからです(3章10節)。

 

上掲の節は罪の赦しについて述べているという説明もあります。

西暦200年代には

罪の赦しに関連するかたちで按手が行われたことが知られています。

しかしこのようなやりかたが

すでに西暦60年代に用いられていたとは考えられません。

パウロは他の箇所でも

按手を教会の職務への任命に関連付けて述べています

(4章14節、「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

 

「(これからは、水ばかりを飲まないで、

胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、

少量のぶどう酒を用いなさい。)」

(「テモテへの第一の手紙」5章23節、口語訳)

 

この節は酒に酔うことを聖書的に正当化するために

引き合いに出されたこともある箇所です。

この手紙の書かれた当時、

水は腐っていることが多かったのに対して、

ぶどう酒は水よりも保存が効き、薬としても用いられていました。

 

この節の背景には

ノーシス主義的な禁欲主義が関係していたとも考えられます。

グノーシス主義者たちはアルコールの使用を完全に否定していました。

それゆえ、

テモテがまったく酒を飲まなかったことは

グノーシス主義の禁酒の要求へのある程度の迎合と

みなされていたのかもしれません。

 

旧約聖書にもぶどう酒をまったく飲まなかった聖者たちがいました。

ダニエルとその仲間(「ダニエル書」1章12節)、

そしてレカブびと(「エレミヤ書」35章)です。

 

ぶどう酒の使用は

当時のキリスト信仰者たちの間でも意見の分かれた問題であり、

一部の人々にとっては「躓き」にさえなっていました

(「ローマの信徒への手紙」14章21節)。

この問題でのパウロの立場は明瞭でした。

それによると、

私たちキリスト信仰者は飲み食いすることや

それを避けることによっては救われません。

とはいえ、自分の持っている自由を行使することで

「弱いキリスト信仰者たち」をことさら苛立たせてもいけないのです

(「ローマの信徒への手紙」14章22〜23節、

「コリントの信徒への第一の手紙」8章7〜13節、10章23〜33節)。

 

「ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、

ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。

それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、

そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章24〜25節、口語訳)

 

上掲の箇所はやはり「長老」に関連しているものと思われます。

教会の指導者を選ぶ際には、

その人物についての目に見える部分は10%にすぎず

残りの90%は水面下にあるという視点が大切になります。

外面的には完璧に見える人物に薄暗い秘密が隠されていることもあります。

しかしその一方では、

ある人物の賜物は他の人々の賜物とは異なって

人の目に見える形では容易に現れない場合もあります。

 

神様はすべてを見通されています。

何事であれ神様から隠しておくことはできません。

たとえ私たち人間がまちがった評価を下したとしても、

私たちの行いが良いか悪いかにはかかわりなく

神様は常に正しいお方なのです。

2024年12月12日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節 教会を指導していくための手引き(その1)

 教会を指導していくための手引き

「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節(その1)

 

「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、

二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。」

(「テモテへの第一の手紙」5章17節、口語訳)

 

教会の長老たちの大多数は「平信徒」でした。

彼らはそれぞれ自分の仕事をこなしつつ教会の指導にもあたっていたのです。

これは海外宣教の多くの場所で今日でもよく見受ける光景です。


その一方で、福音の宣教に専念できる長老たちもいましたが

(「使徒言行録」18章5節)、

教会は彼らの生活費を賄わなければなりませんでした。

 

「教会を指導する長老」と「教えに専念する長老」という

二種類の長老が存在したことを上掲の節は示唆している

と解釈されることが時折あります。


確実に言えるのは、

長老が同時に指導者でもあり教師でもあったということです。

おそらくこの節でパウロは

宣教者としてフルタイムで活動している長老たちのことを指しているのでしょう。

 

この節は一般的に年寄りの男性たち

(やもめと同様に(5章3節)支援を必要としている教会員たち)

について述べているという説明もなされています。


このように考える場合には

「二倍の尊敬」とは

具体的には「二倍の支援」を意味していることになるでしょう。


しかしこの解釈は

長老たちが教会職に就く者たちに按手を施すという

5章22節の記述と調和しません

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章14節、

「ガラテアの信徒への手紙」6章6節も参考になります)。

 

とはいえこの「二倍の尊敬」には経済的な支援も含まれていたのはたしかです。

 

「聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」

また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。」

(「テモテへの第一の手紙」5章18節、口語訳)

 

この節に引用されている聖句は

「申命記」25章4節および「ルカによる福音書」10章7節にある

イエス様の言葉に由来しています。


「テモテへの第一の手紙」が書かれた当時、

ルカはおそらく福音書をまだ書いてはいませんでした。

一連の福音書が書かれる以前に、

イエス様の教えとイエス様にまつわる出来事の数々とが

文書としてまとめられたものがすでに存在していたのです

(「ルカによる福音書」1章1〜4節も参考になります)。

 

パウロは「申命記」の同じ箇所を

「コリントの信徒への第一の手紙」9章9節でも引用しています。

 

「長老に対する訴訟は、

ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章19節、口語訳)

 

教会の指導者たちは周囲から

とりわけ厳しい目で見られたり嫉妬されたりしました。

その結果、彼らはいわれのない非難を受けることもありました。


指導者たちに対する訴訟では

彼らをたんに非難するだけでは不十分で、

二人か三人の証人が必要とされました。

モーセの律法も同じことを特に重大犯罪の案件に関して要求しています

(「申命記」17章6節、19章15節。

「コリントの信徒への第二の手紙」13章1節も参考になります)。

 

「罪を犯した者に対しては、

ほかの人々も恐れをいだくに至るために、

すべての人の前でその罪をとがむべきである。」

(「テモテへの第一の手紙」5章20節、口語訳)

 

この節は教会の指導者を叱責するケースについて述べているのでしょう。

叱責は長老たちの面前で行われました。

罪が公然のものである場合には、

れに対する叱責も公然となされなければなりませんでした

(「マタイによる福音書」18章15〜17節、

「ガラテアの信徒への手紙」2章11〜14節)。

2024年11月25日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章9〜16節 やもめたちの教会での職務

 やもめたちの教会での職務

「テモテへの第一の手紙」5章9〜16節

 

60歳以上のやもめは再婚することをあきらめて(5章9節)

教会への奉仕に専念することができました。

彼女たちはそのために「初めの誓い」を行いました(5章12節)。

 

「やもめ」の職務内容には

祈り(5章5節)、奉仕(5章10節)、家庭訪問(5章13節)

が含まれていました。


西暦200年代にはやもめの職制にかかわる問題が起きてきました。

彼女たちの一部は教会の霊的な指導者の地位を欲するようになったのです。

それとともにやもめの職制はなくなりました。


教会教父たちはやもめの職制についての記述を残しています。

この職制は現代のディアコニア職に該当します

(「使徒言行録」9章36〜41節も参考になります)。

 

後に「やもめ」とみなされる年齢制限は50歳にまで引き下げられました

(5章9節と比較しましょう)。

 

パウロは5章14節で

「若いやもめは結婚して子を産み、家をおさめ、

そして、反対者にそしられるすきを作らないようにしてほしい」

と述べています(3章2、12節も参考になります)。

ですから「ひとりの夫の妻であった者」(5章9節)とは

「夫に対して妻として忠実であり続けたやもめ」という意味になるでしょう。

 

客人の足を洗うのは僕(しもべ)の仕事でした

(5章10節。

「ヨハネによる福音書」13章4〜5節や

「ルカによる福音書」7章44節も参考になります)。

この奉仕のありかたは

自らを低める態度を他の人々にも要求するものでした。

 

若いやもめの怠惰さや暇つぶし(5章13節)は

いともたやすく他の悪徳とも結びついていきます。

 

「彼女たちのうちには、サタンのあとを追って道を踏みはずした者もある。」

(「テモテへの第一の手紙」5章15節、口語訳)

 

この節はグノーシス主義に転向した若いやもめたちを示唆している

と考えることもできます。

サタンのあとを追うことは異端に陥ることを意味しています。

 

「女の信者が家にやもめを持っている場合には、

自分でそのやもめの世話をしてあげなさい。

教会のやっかいになってはいけない。

教会は、真にたよりのないやもめの世話をしなければならない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章16節、口語訳)

 

教会によるやもめの支援は

本当に支援が必要なやもめたちだけのためであることを

この節は再度強調しています(5章3、8節)。

 

パウロの教えは現代社会においても重要となる視点を提供しています。

それは困窮の度合いに応じて支援の量も変えていくべきである

という考えかたです。

全員に等しく分配される社会福祉の経済的な利益は

受け取る側の人々の間に存在する経済力の格差を

是正するものではなくなっています。

社会福祉の分配を適切に管理しないかぎり、

社会福祉を本当に必要としている人が受けるはずの利益を

それ以外の人々が濫用するのを助長しかねません。


パウロはキリスト信仰者の心の中にも

強欲で自己中心的な「古い人」が巣食っていることをよく知っていました。

それゆえ教会は支援の分配を監視しなければならないのです。

 

社会的弱者(やもめなど)の親戚たちは

「社会的弱者の世話は社会がするべきだ」という考えかたを

都合よく引き合いに出して自らの責任を回避するべきではありません。

2024年11月21日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節 助けを必要としているやもめたち(その2)

 やもめなどの人々への生活指針

「テモテへの第一の手紙」5章

 

助けを必要としているやもめたち(その2)

「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節

 

やもめの重要な使命は祈ることでした(5章5節)。

「ルカによる福音書」にはアンナというやもめについての記述があります。

 

「また、アセル族のパヌエルの娘で、

アンナという女預言者がいた。

彼女は非常に年をとっていた。

むすめ時代にとついで、

七年間だけ夫と共に住み、

その後やもめぐらしをし、

八十四歳になっていた。

そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。」

(「ルカによる福音書」2章36〜37節、口語訳)

 

当時、やもめは人々から軽んじられる社会的立場にありました。

彼らは周囲から見捨てられた人々だったのです。

旧約聖書には生活に必要な収入をやもめにも保証することを目的とした

様々な規定がありました

(「申命記」16章11節、24章17〜21節。

「イザヤ書」1章16〜17節も参考になります)。

 

「あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、

および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、

それを食べさせ、満足させなければならない。

そうすれば、あなたの神、主は

あなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。」

(「申命記」14章29節、口語訳)

 

エルサレムの最初の頃の教会に設立されたディアコニア職は

やもめを支援するためであったことをここで思い起こしましょう

(「使徒言行録」6章1〜7節)。

次の「ヤコブの手紙」の箇所も参考になります。

 

「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、

困っている孤児や、やもめを見舞い、

自らは世の汚れに染まずに、

身を清く保つことにほかならない。」

(「ヤコブの手紙」1章27節、口語訳)。

 

「これに反して、

みだらな生活をしているやもめは、

生けるしかばねにすぎない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章6節、口語訳)

 

この節は売春婦に身を落としたやもめのことを指していると思われます。

当時、売春は

親戚同士の助け合いのネットワークから切り離された独り身の女性にとって

生活費を得るために残されたほとんど唯一の手段でした。

 

「もしある人が、

その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、

その信仰を捨てたことになるのであって、

不信者以上にわるい。」

(「テモテへの第一の手紙」5章8節、口語訳)

 

信仰がたんなる教義項目ではなく

日々の生活の中に具体的に見てとれるように

ならなければならないものであることをこの節は教えています。

第四戒(「あなたの父と母を敬え。

これは、あなたの神、主が賜わる地で、

あなたが長く生きるためである。」

(「出エジプト記」20章12節、口語訳))

に従おうとしない人は霊的に(信仰的に)死んでいるのです

(「ヨハネの黙示録」3章2節。

「マルコによる福音書」7章10〜13節、

12章38〜40節も参考になります)。

 

霊的に死んでいる人は

不信仰者以上にたちの悪い存在であるとさえ言えます。

「自分は霊的に(信仰的に)生きている」と思い込んでいるため

(「エフェソの信徒への手紙」4章17〜19節)、

「自分には悔い改めなど必要ない」と誤解しているからです

(「ペテロの第二の手紙」2章21〜22節)。

 

2024年11月18日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節 助けを必要としているやもめたち(その1) 

 やもめなどの人々への生活指針

「テモテへの第一の手紙」5章

 

助けを必要としているやもめたち(その1)

「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節

 

老人をとがめてはいけない。

むしろ父親に対するように、話してあげなさい。

若い男には兄弟に対するように、

年とった女には母親に対するように、

若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、

勧告しなさい。

(「テモテへの第一の手紙」5章1〜2節、口語訳)

 

上の箇所はいろいろな状況で役に立つ教えです。

あなたの置かれた状況をこの聖句が適用できるようにあてはめてみてください。

そうすればあなたが今どのように行動するべきかがわかってくるはずです。

たとえば説教者はあたかもある特定の知り合いに話しかけるかのようにして

聴衆に語りかければよいのです

(「ローマの信徒への手紙」16章13節も参考になります)。

 

「老人」はギリシア語で「プレスビュテロス」といい、

5章17節の「長老」と同じ単語です。

また「年とった女」は一般的なやもめ(5章3〜8節)だけではなく

教会に登録されたやもめ(5章9〜15節)のことも意味しています。

 

当時の社会にはいわゆる「中年」という概念が存在しなかったため、

人間は「若者」時代のあとはすぐそのまま「老人」時代に移行しました

(4章12節とも比較してください)。

 

「真に純潔な思いをもって

(ギリシア語で「エン・パーセー・ハグネイアー」)は重要な指摘です。

当時の社会では男性と女性の間の関わり合いは現代ほど一般的ではなく

(「ヨハネによる福音書」4章27節。

「テモテへの第二の手紙」3章6〜7節も参考になります)、

意地の悪い噂話はいとも簡単に広がっていったからです。

 

「やもめについては、真にたよりのないやもめたちを、よくしてあげなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」5章3節、口語訳)

 

教会は「真にたよりのないやもめ」の世話をしました(5章3、16節)。

「よくしてあげなさい」は

ギリシア語で「敬う」という意味をもつ動詞「ティマオー」の命令形です。

上節の口語訳のように、

この単語には「援助する」という意味合いもあります。

なお5章17節にはこの動詞と共通する派生をもつ

名詞「ティメー」が「尊敬」という意味で用いられています。

 

西暦250年頃のローマの教会には

やもめや助けが必要な人が約1500人いたことが知られています。

 

教会から援助を受けられるという特典は、

教会に属さないやもめたちも教会に接近する機会を提供しました。

教会からの援助を得るためにやもめの親戚たちが

彼らの世話を意図的に放棄する場合さえありました。

やもめへの援助の不正な拡大利用を防ぐために、

教会は援助を受けることを申し込んだやもめたちを

吟味しなければなりませんでした。

 

「やもめに子か孫かがある場合には、

これらの者に、まず自分の家で孝養をつくし、

親の恩に報いることを学ばせるべきである。

それが、神のみこころにかなうことなのである。」

(「テモテへの第一の手紙」5章4節、口語訳)

 

やもめの子や孫には自分の母親あるいは祖母を助ける義務があります。

これには二つの根拠があります。

第一に、この援助は

彼ら自身が若い頃に両親や祖父母から受けた援助に対して報いることです。

第二に、この援助は

「神のみこころにかなうこと」です。

 

当時の社会では婚礼の際に花嫁の親が彼女に持参金をもたせて

花婿のもとに送り出す習慣がありました。

それに対して、持参金を受け取った花婿の親戚たちは

花嫁がやもめとなった後に彼女の世話をするという法的な義務を負いました。

2024年10月17日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その3)

 五番目の福音書(その3)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

すでに旧約の時代にモーセはイスラエルの民を指導する自分の後継者として

ヨシュアを任命する時に按手というやりかたを行っています

(「民数記」27章18〜23節)。

 

「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちた人であった。

モーセが彼の上に手を置いたからである。

イスラエルの人々は彼に聞き従い、

主がモーセに命じられたとおりにおこなった。」

(「申命記」34章9節、口語訳)。

 

ユダヤ教の教師であるラビたちも新しくラビになる者に按手を施しました。

 

「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、

これらの事を実行し、それを励みなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章15節、口語訳)

 

キリスト信仰者たちの指導者となる人物は

その前にまず特別に慎重な審査を受けます。

彼らが罪に堕落する場合、

それは平信徒たちが罪に堕落する場合よりも重大な意味を帯びるからです。

 

聖霊様から教えを受ける立場にわが身を置き続けることによって

キリスト信仰者は信仰において進歩することができます

(「フィリピの信徒への手紙」1章25節、3章12節)。

 

「イエスは彼に言われた、

「わたしは道であり、真理であり、命である。

だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

 

人間はイエス様という「道」を通してのみ救われることができます。

この道を終わりまで歩み続けなければなりません。

途中でこの道を歩むのを止めてしまうと目的地にはたどり着けなくなります

(「マルコによる福音書」13章13節、

「コリントの信徒への第一の手紙」15章2節、

「コロサイの信徒への手紙」1章22〜23節、

「ヘブライの信徒への手紙」3章14節)。

 

「自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。

そうすれば、あなたは、

自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。」

(「テモテへの第一の手紙」4章16節、口語訳)

 

誰も他の人を救うことはできません。

しかし他の人を救いの源であるキリストの御許へと導くことはできます

(「ローマの信徒への手紙」11章14節、

「コリントの信徒への第一の手紙」7章16節)。

 

「ヤコブの手紙」は次の言葉で締めくくられています。

 

「わたしの兄弟たちよ。

あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、

だれかが彼を引きもどすなら、

かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、

知るべきである。」

(「ヤコブの手紙」5章19〜20節、口語訳)

2024年10月10日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その2)

 五番目の福音書(その2)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

「わたしがそちらに行く時まで、

聖書を朗読することと、

勧めをすることと、

教えることとに心を用いなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章13節、口語訳)

 

「聖書を朗読すること」とは聖書を公に朗読することです。

ユダヤ人たちは会堂の礼拝で旧約聖書を朗読しました

(「ネヘミヤ記」8章8節、

「ルカによる福音書」4章16〜19節、

「使徒言行録」13章15節、15章21節)。

キリスト信仰者たちは旧約聖書だけではなく

イエス様をめぐる出来事の記述について

礼拝で朗読する習慣がありました(5章18節も参考になります)。

これらの記述が後に福音書としてまとめられることになります。

キリスト信仰者たちは使徒たちの数々の手紙も礼拝で朗読しました

(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章27節、

「コロサイの信徒への手紙」4章16節、

「ペテロの第二の手紙」3章16節。

また「ヨハネの黙示録」1章3節、22章18〜19節も参照してください)。

 

礼拝では聖書の朗読に続いてその箇所の解き明かしがなされました

(「ルカによる福音書」4章21節、

「使徒言行録」13章16〜47節も参照してください)。


現代の教会の礼拝においても

説教は聖書の御言葉の適切な解き明かしであるべきものです。

 

上節は当時の礼拝の内容を表しています。

ここには聖餐式についての記述がありませんが、

最初の頃の教会のすべての礼拝では聖餐式が執り行われていました

(「コリントの信徒への第一の手紙」11章17〜21節)。

 

また上掲の節からは

パウロがこの段階では自分がエフェソに行けることを

希望していたことがわかります

(3章14節にもこの希望が述べられています)。

 

テモテは福音を宣教する教会職に任命されました(4章12節)。

おそらくこの任命は

パウロが彼を自分の同僚として連れて行った

第二次伝道旅行の時になされたものと思われます

(「使徒言行録」16章3節、

「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

 

「長老の按手を受けた時、

預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、

軽視してはならない。」

(「テモテへの第一の手紙」4章14節、口語訳)

 

テモテをお選びになったのは人間ではなく神様です

(1章18節も参考になります)。

それゆえテモテを軽んじることは神様を軽んじることにもなります。

 

神様はテモテに教会職の遂行に必要な恵みの賜物を授けました。

パウロはこの賜物を十分に活用するようにとテモテを励ましています

(「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

 

神様はキリスト信仰者各々が

いただいた賜物を活用していくようにと招いておられます。

 

それゆえ私たちは

キリスト信仰者が神様からいただいた賜物を無駄にしないようにするために、

ふさわしい人物がふさわしい職務に任命されることを祈らなければなりません。

2024年10月3日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その1)

 五番目の福音書(その1)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

キリスト信仰者は「五番目の福音書」と呼ばれることがあります。

人々はキリスト信仰者たちの生き方を見て

「神様がどのような存在か?」また「神様を信じたほうがよいかどうか?」

をそれに基づいて決めることがあるからです。

残念ながら私たちキリスト信仰者は

新約聖書の四つの福音書よりもはるかに不完全な形で

神様がどのようなお方かを伝えているにすぎません。

私たちの生き方が聖書の教えと矛盾している場合に

私たちはそれを正すべきなのです。

ところが私たちの生き方を聖書の教えに従わせようとはせず、

逆に聖書のほうを私たちの生き方に適合させようとする試みが

残念ながらしばしば見られます。

 

「これらの事を命じ、また教えなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章11節、口語訳)

 

「これらの事を」という表現は「テモテへの第一の手紙」によく出てきます

(3章14節、4章11、15節、5章7、21節)。

これによってパウロはテモテが学んだ信仰の基礎のことを指しています。

最初期の頃よりキリスト教信仰はある種の「教義項目」を通し、

またそれらを活用することによって宣べ伝えられてきました

(4章6、16節も参照してください)。

 

「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。

むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、

信者の模範になりなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章12節、口語訳)

 

「テモテへの第一の手紙」が書かれた当時、テモテは約35歳でした。

当時の教会の指導者としてはまだ若かったといえます。

この節も60年代にこの手紙が執筆されたという推定を裏付けるものです。

西暦100年以降の時代にテモテはすでにかなりの高齢になっていたからです

(「コリントの信徒への第一の手紙」16章10〜11節も参考になります)。

 

パウロは自分の与えた模範に従うように他の人々に何度も呼びかけています

(「コリントの信徒への第一の手紙」11章1節、

「フィリピの信徒への手紙」3章17節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章6節、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章7、9節)。

パウロはテモテにも信仰者として

他のキリスト信仰者たちの模範になるように奨励しています

(「ヘブライの信徒への手紙」13章7節、

「ペテロの第一の手紙」5章3節も参照してください)。

 

人々から受ける敬意は本人が周囲から無理に要求して集めるものではありません。

まずはじめに自分が敬意を受けるに値する者であることを

自らの信仰生活を通して示していかなければならないのです。

 

信仰と愛の関係性(4章12節)は「十字架」によって描き出すことができます。

信仰はいわば十字架の縦棒であり、

人と神様の間の関係を表しています。

愛はいわば十字架の横棒であり、

人と他の人々すなわち隣り人たちとの関係を表しています。