教会を指導していくための手引き(その2)
「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節
「わたしは、
神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、
おごそかにあなたに命じる。
これらのことを偏見なしに守り、
何事についても、不公平な仕方をしてはならない。」
(「テモテへの第一の手紙」5章21節、口語訳)
テモテは公正でなければなりませんでした。
信仰にかかわる霊的な事柄を指導するときにとりわけ重要なのは公平さです
(「ローマの信徒への手紙」2章11節)。
特定の人々を優遇するという不公平が現代でもしばしば起きているのは
たいへん残念なことです。
「軽々しく人に手をおいてはならない。
また、ほかの人の罪に加わってはいけない。
自分をきよく守りなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」5章22節、口語訳)
按手を授ける者は按手を受ける者について責任を負います。
按手を受けて教会の職務を委ねられた者が
不適格であることが明らかになった場合、
按手を授けた者が按手を受けた人物の適格性を
あらかじめ十分に吟味しなかったことになるからです(3章10節)。
上掲の節は罪の赦しについて述べているという説明もあります。
西暦200年代には
罪の赦しに関連するかたちで按手が行われたことが知られています。
しかしこのようなやりかたが
すでに西暦60年代に用いられていたとは考えられません。
パウロは他の箇所でも
按手を教会の職務への任命に関連付けて述べています
(4章14節、「テモテへの第二の手紙」1章6節)。
「(これからは、水ばかりを飲まないで、
胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、
少量のぶどう酒を用いなさい。)」
(「テモテへの第一の手紙」5章23節、口語訳)
この節は酒に酔うことを聖書的に正当化するために
引き合いに出されたこともある箇所です。
この手紙の書かれた当時、
水は腐っていることが多かったのに対して、
ぶどう酒は水よりも保存が効き、薬としても用いられていました。
この節の背景には
グノーシス主義的な禁欲主義が関係していたとも考えられます。
グノーシス主義者たちはアルコールの使用を完全に否定していました。
それゆえ、
テモテがまったく酒を飲まなかったことは
グノーシス主義の禁酒の要求へのある程度の迎合と
みなされていたのかもしれません。
旧約聖書にもぶどう酒をまったく飲まなかった聖者たちがいました。
ダニエルとその仲間(「ダニエル書」1章12節)、
そしてレカブびと(「エレミヤ書」35章)です。
ぶどう酒の使用は
当時のキリスト信仰者たちの間でも意見の分かれた問題であり、
一部の人々にとっては「躓き」にさえなっていました
(「ローマの信徒への手紙」14章21節)。
この問題でのパウロの立場は明瞭でした。
それによると、
私たちキリスト信仰者は飲み食いすることや
それを避けることによっては救われません。
とはいえ、自分の持っている自由を行使することで
「弱いキリスト信仰者たち」をことさら苛立たせてもいけないのです
(「ローマの信徒への手紙」14章22〜23節、
「コリントの信徒への第一の手紙」8章7〜13節、10章23〜33節)。
「ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、
ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。
それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、
そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。」
(「テモテへの第一の手紙」5章24〜25節、口語訳)
上掲の箇所はやはり「長老」に関連しているものと思われます。
教会の指導者を選ぶ際には、
その人物についての目に見える部分は10%にすぎず
残りの90%は水面下にあるという視点が大切になります。
外面的には完璧に見える人物に薄暗い秘密が隠されていることもあります。
しかしその一方では、
ある人物の賜物は他の人々の賜物とは異なって
人の目に見える形では容易に現れない場合もあります。
神様はすべてを見通されています。
何事であれ神様から隠しておくことはできません。
たとえ私たち人間がまちがった評価を下したとしても、
私たちの行いが良いか悪いかにはかかわりなく
神様は常に正しいお方なのです。