2022年9月5日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 同時にキリスト信仰者でもあり金持でもあることは可能なのか?

 同時にキリスト信仰者でもあり金持でもあることは可能なのか?

 

イエス・キリストを信仰する経営者が1970年代に

フィンランドの長者番付で一位になったことがありました。

その年に彼は全フィンランド人の中で一番多く税金を国に支払った

ということになります。

新聞記者が彼に

「フィンランドで一番の金持であるあなたは

イエス・キリストを信じているそうですが、

どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?」

という趣旨の質問をすると、彼は

「私はフィンランドで一番裕福な者なのではなく、

収入を正直に一番多く国に申告しただけです」と答えました。

 

キリスト信仰者は同時に金持でもありうるのでしょうか。

「ルカによる福音書」によれば、

イエス様の弟子たちのうちの少なくとも一部は経済的に余裕のある人々でした。

彼らはそれぞれ自らの資産を用いてイエス様にお仕えした

と書かれているからです(「ルカによる福音書」8章3節)。

 

次の聖句からもわかるように、

富そのものは罪ではなく、むしろ神様からの祝福のあらわれのひとつです。

 

「謙遜と主を恐れることとの報いは、

富と誉と命とである。」

(「箴言」22章4節、口語訳)。

 

ここで「富を何のために使用するのか?」

また「富はその所有者にどのような影響を与えるのか?」

といった問題を考えてみる必要があります。

「ルカによる福音書」16章19〜31節に登場する

金持の男に起きたのと同じようなことが誰に対しても起こりえます。

この金持の男は自分の富によって目が眩み、

自宅の門前に横たわっていた貧しいラザロにはまったく関心を示しませんでした。

また彼はこの世での限りある人生を終えた後に

永遠の世界が彼を待ち受けていることも忘れていました。

 

ところでキリスト信仰者、キリスト教会、キリスト教宣教団体は

各々の組織において金銭にかかわる事柄を

どのように取り扱うべきなのでしょうか。


宗教改革者マルティン・ルターは

「もしも明日この世が終わることを知っていたとしても

自分はリンゴの木を植える」という旨のことを言ったという伝承があります。


次に引用する出来事はイエス様が十字架にかけられる少し前に起きました。

 

「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、

ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、

イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。

すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、

「なんのためにこんなむだ使をするのか。

それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。

イエスはそれを聞いて彼らに言われた、

「なぜ、女を困らせるのか。

わたしによい事をしてくれたのだ。

貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、

わたしはいつも一緒にいるわけではない。

この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、

わたしの葬りの用意をするためである。

よく聞きなさい。

全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、

この女のした事も記念として語られるであろう」。」

(「マタイによる福音書」26章6〜13節、口語訳)

 

イエス様はある女から高価な油を頭に注ぎかけられたときに、

それを金の無駄遣いとは思われませんでした。

イエス様は彼女に対してお叱りになるどころか、

むしろそれについて感謝なさったのです。

 

金銭には神様の御国の働きにおいて固有の役割があります。

お金がなければ、

宣教師たちはすぐにでも母国に帰国しなければならなくなるでしょう。

お金がなければ、

冬の冷え切った教会に暖房を入れることもできなくなります。

しかし、お金は「使用人」であるべきであって「主人」であってはなりません。

 

私たち人間は経済的にも将来への備えをしなければなりません。

今日一日で全財産を使い切ってしまうような真似は決してしてはいけません。

その一方で、

金銭がどのような場合に無駄にさびつくことになり、

どのような場合に将来を見据えた賢明な備えとなるのか

という問題を慎重に考えてみるべきです。

これら二つのケースの間に明確な境界線を引くのは容易ではありません。

だからこそ、

キリスト教会やキリスト教の宣教団体で経済面を委ねられている人々が

適切な判断を下していけるように

私たちキリスト信仰者が祈りに覚えるのは大切なことになります。