2022年8月15日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック あなたがたは律法の上に立つ者ではない(その1)

 あなたがたは律法の上に立つ者ではない

「ヤコブの手紙」4章11〜12節(その1)

 

「兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。

兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、

律法をそしり、律法をさばくやからである。

もしあなたが律法をさばくなら、

律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。

しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、

救うことも滅ぼすこともできるのである。

しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」

(「ヤコブの手紙」4章11〜12節、口語訳)

 

悪口を言うことはその場にいない他の人を貶すことです。


「陰口を言う者は律法を裁いている」

と指摘するヤコブは何が言いたいのでしょうか。


律法が人間関係に要求しているのは隣り人を愛することです

(「レビ記」19章18節、「マタイによる福音書」22章34〜40節)。


この隣人愛の律法に従おうとしない者は自分を律法よりも上位に置いています。

そのような人は

自分が人間関係の問題について律法以上によくわかっている

と主張していることになるからです。


また、律法に反対することは神様に反対することでもあります。

律法を捨てることは律法を授けてくださったお方を捨てることにもなるからです。

 

キリスト信仰者は隣り人を自分よりも下位に置くべきではありません。

それとは逆に、隣り人を持ち上げて支えるように努めるべきなのです。

 

しかしこれは、

私たちは隣り人に対して注意や否定的なことを一切言ってはいけない

という意味でしょうか。


私たちは万事について善意に解釈するべきなのでしょうか。


ここでヤコブが言いたいのはそのようなことではありません。

実際に私たちは自分や他の人たちの生き方を神様の律法の光に照らして

適切に評価することができますし、またそうすべきなのです。


ヤコブの第一の主張は、

私たちは自分に都合が良いように人々を評価してはいけない

ということです。


そして第二の主張は、

この評価がどのような意味でまたどのような目的で行われるものであるか

忘れないということです。


たしかに神様の律法は否定的な目的で使用することもできます。

例えば、他の人々の誤りや欠点を指摘するために律法を用いる場合です。


しかしまた、神様の律法は肯定的な目的のためにも用いることができます。

これは人々が自らの罪を悔い改めて神様から罪の赦しをいただくために

律法を使用する場合です。

 

キリスト教の宣教活動においても

神様の律法がまちがった目的のために使用されることが度々起こります。

上掲の例の他にも正しくない危険な宣教のやり方がいくつも考えられます。


例えば、牧師が聴衆に対して

「あなたたちは罪人である」と決めつけて説教をおしまいにしたり、

律法の要求にどう対処するべきかわからなくさせたりする場合などです。


いろいろな罪を「重大な罪」と「重大ではない罪」とに区別するのも

律法の危険な使い方です。

このような分類を試みるときには、

キリスト教から遠ざかった人の罪ばかりが重大視され、

教会につながっている人の罪は過小評価される傾向があるからです。