2022年8月24日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 自信過剰のあやまち

自信過剰のあやまち

「ヤコブの手紙」4章13〜17節

 

ヤコブはこの箇所で「計画を立てること」を完全に否定しているように

見えるかもしれませんが、そうではありません。

ヤコブは計画を立てること自体は認めています。

それは次の15節にもはっきりあらわれています。

 

「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、

わたしは生きながらえもし、

あの事この事もしよう」と言うべきである。」

(「ヤコブの手紙」4章15節、口語訳)

 

ここでヤコブが手紙の読者に強調したいのは、

計画を立てるときにも神様を忘れるべきではないということです。

あたかも神様など存在しないかのような態度で計画を立てるべきではありません。

このことをよく表しているキリスト教の古い標語があります。


「祈りなさい、そして、働きなさい!」


「あたかも自分の働きは何の助けにもならないかのように祈りなさい。

また、あたかも自分の祈りは何の助けにもならないかのように働きなさい。」

 

神様には人間の人生を左右する最終的な決定権があります。

旧約聖書にもイエス様の発言にも使徒パウロの手紙にも

このことを教えている箇所があります。

 

「あすのことを誇ってはならない、

一日のうちに何がおこるかを

知ることができないからだ。」

(「箴言」27章1節、口語訳)

 

「そこで一つの譬を語られた、

「ある金持の畑が豊作であった。

そこで彼は心の中で、

『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』

と思いめぐらして言った、

『こうしよう。

わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、

そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。

そして自分の魂に言おう。

たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。

さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

すると神が彼に言われた、

『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。

そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。」

(「ルカによる福音書」12章16〜20節、口語訳)

 

「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、

わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」

(「ヨハネによる福音書」15章5節、口語訳)

 

「わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。

もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」16章7節、口語訳)

 

ヤコブの手紙はこのテーマについて次のように教えています。

人間は何年でも先の計画を立てることはできます(4章13節)。

にもかかわらず、実際には「あすのこともわからぬ身」なのです(4章14節)。

  

「ヤコブの手紙」4章15節でヤコブは、
神様が私たちに生きるのを許してくださっているからこそ
私たちは今こうして生きているという単純な事実を述べています。 

「ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。

このような高慢は、すべて悪である。」

(「ヤコブの手紙」4章16節、口語訳)

 

高慢はキリスト信仰者にはふさわしくありません。

旧約聖書も次のように警告しています。

 

「高ぶりは滅びにさきだち、

誇る心は倒れにさきだつ。」

(「箴言」16章18節、口語訳)

 

「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、

それは彼にとって罪である。」

(「ヤコブの手紙」4章17節、口語訳)

 

この節は

「自分なら罪のない状態に達することができる」と勘違いしている

すべての人間を徹底的に打ち砕きます。


私たちはたとえ悪い行いを避けることができたとしても、

神様が私たちに良い行いをする機会を与えてくださるときに

いつもそれを実行できるわけではありません。

 

キリスト教信仰に基づく道徳意識は

商売などの利益優先の経済活動には向いていないと主張されることがあります。

しかしこのような考え方には、

神様を「日曜日だけの主人」に押し込め、

自分を「月曜日から土曜日までの主人」とするような

人間の傲慢な態度があらわれています。


大きな成功を収めたあるフィンランド人実業家はテレビのインタビューで

「経済活動で成功するためには正直でなければならない」

と言ったことがあります。


私たちはともすると物事を思い込みで判断しがちです。

しかし、現実はそのような人間の勝手な想像とは異なっているものです。

全能なる神様はもちろん経済活動においても人間たちの主人の立場におられます。