2022年8月4日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 神様の御意思の下にへりくだりなさい

  

神様の御意思の下にへりくだりなさい

「ヤコブの手紙」4章7〜10節

 

これから扱う箇所には実行不可能な要求ばかりが列挙されている

と感じる人もいるかもしれません。

4つの節の中には実に10個もの奨励が含まれているからです。

 

しかしヤコブの基本的な考え方によれば、

これらの奨励に従うこともまた

神様の恵みの力によってのみ実現できることになります(4章7節)。

 

「主のみまえにへりくだれ。

そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」

(「ヤコブの手紙」4章10節、口語訳)

 

上掲の節にあるように、

主の御心に対してへりくだることは

人が真の信仰生活を送るために欠くことのできない出発点です。

イエス様も次のように言っておられます。

 

「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、

自分を低くする者は高くされるであろう。」

(「ルカによる福音書」14章11節、口語訳)

 

例えば、スポーツの分野で最高の成績を収めるためには

全力で練習に打ち込むことが必要不可欠であると考えられています。

ところが、こと信仰生活に関していうと

人間の側ではいっさい何もしなくても

自ずと信仰者の「聖化」が実現していくはずである

と考える人たちが少なからずいます。


これはまことに奇妙なことです。


もちろん私たちは真の信仰生活を送れることが

聖霊様からの働きかけのおかげであることを忘れるべきではありません。

しかしその一方で、

信仰生活を健全な状態に保つために

「特定の手段」を神様が用意してくださっていることも忘れてはいけないのです。


それには「恵みの手段」と呼ばれる「聖書、洗礼、聖餐」に加えて、

祈りやキリスト信仰者の間の交わりなども含めることができるでしょう。

私たちはこれらの手段を信仰生活のために存分に役立たせることもできますし、

それとは反対に、

それらを長い間利用しないままになることも起こりえます。

例えば、

祈りもせず聖書も読まず教会の礼拝にも参加しない人が

真の信仰生活を送れなくなったとしても何の不思議もありません。

 

人が「神様によって義とされること」(義認)と

「真の信仰生活を送るようになること」(聖化)とは

次の点で互いに異なるものとして区別しなければなりません。


私たちが神様によって義と認められることに関して

私たち自身の行いはまったく影響を及ぼすことができません。


しかしそれとは対照的に、

私たちが真の信仰生活を送れるようになるかどうかは、

私たち自身が神様の御意思に対してへりくだるかどうかに左右されます。


要約すると「聖化」とは、

キリストを救い主として信じるようになった人間が

残りの全人生をかけて実現していく過程のことなのです。

ですから、

私たち人間が神様の御意思に反抗して「聖化」を妨げることも起こりうるのです。