2022年8月17日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック あなたがたは律法の上に立つ者ではない(その2)

あなたがたは律法の上に立つ者ではない(その2)

「ヤコブの手紙」4章11〜12節

 

ここで「誤った使い方が正しい使い方を妨げることがあってはならない」

という古い格言を思い起こしましょう。


もちろん神様の律法自体や律法を宣べ伝えることは

キリスト教の宣教において重要なものです。


律法の要求を真摯に受けとめずに福音を真に深く理解することはできません。

律法と福音は互いに深め合いその意味を明確にし合う関係にあるのです。

 

律法はすべての人間にかかわっていると聖書は教えています。

このことから、

すべての人間は律法を破っている罪深い存在であるという結論が出てきます。

使徒パウロも

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」

(「ローマの信徒への手紙」3章23節、口語訳)と書いています。

 

同時に真の神様でもあり真の人間でもあるイエス様は唯一の例外ですが、

人間は誰一人、神様の律法の要求する内容を完全に満たすことはできません。


ですから「罪人であるあなたたち」という言い方ではなく

むしろ「罪人である私たち」という言い方を用いるべきなのです。


イザヤが預言者として神様に召されたときの出来事にも

このことはよく表現されています。

次の引用箇所での「わたし」とはイザヤのことです。

 

「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、

その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。

その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。

その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、

二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。

その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。

その時わたしは言った、

「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。

わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、

わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

この時セラピムのひとりが火ばしをもって、

祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、

わたしの口に触れて言った、

「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、

あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。」

(「イザヤ書」6章1〜7節、口語訳)

 

律法と福音は互いに異なるものです。

しかし、それらの明確な区別にこだわりすぎるのもよくありません。


例えば、私たちが神様の律法ばかりを宣教する場合には、

聴衆はそのような教えから憐み深い神様を見出すことはできないでしょう。

 

その一方で、神様の恵みはいわば「安物の恵み」であってもいけません。

イエス様は弟子たちに、

人々を罪から解放することと罪へと捕縛することという二つの職務を

行うようにお命じになりました。

 

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、

行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。

もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。

それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、

すべてのことがらが確かめられるためである。

もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。

もし教会の言うことも聞かないなら、

その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。

よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、

あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」

(「マタイによる福音書」18章15〜18節、口語訳)

 

神様が私たちの罪を赦してくださるのは、

そのおかげで私たちが平気でさらに罪を重ねていけるようにするため

ではありません。

使徒パウロも次のように書いています。

 

「では、わたしたちは、なんと言おうか。

恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

断じてそうではない。

罪に対して死んだわたしたちが、

どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」

(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、口語訳)

 

このようにキリスト教会には、

自らの罪深さを悔い改めない人間を罪へと捕縛する職務もあるのです。


しかし残念ながら、このような考え方に対して

多くの現代人は強い違和感を持つようになっています。


人が他の人を罪へと捕縛したり、

少なくともそう考えたりするだけでも、

「他人を裁く冷たい人間」というレッテルを貼られてしまいます。


また「どうしても罪について言及せざるをえないときには、

罪の赦しを受けることと与えることとについてのみ話すべきである」

という意見も人間の罪深さに真摯に向き合おうとしない現代流の考え方です。