2022年7月27日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 自己中心さは争いの種を撒き散らす(その2)

 自己中心さは争いの種を撒き散らす(その2)

「ヤコブの手紙」4章1〜6節

 

「不貞のやからよ。

世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。

おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」

(「ヤコブの手紙」4章4節、口語訳)

 

上掲の節にある「不貞のやからよ。」という表現は

旧約聖書の「契約の神学」と密接に関係しています。


旧約聖書の預言者たちは

イスラエルの民が神様に対して「不貞」であることを厳しく叱責しました。


イスラエルの民は「神の民」という重要な地位を与えられていたにもかかわらず、

神様が彼らと結んでくださった契約を一方的に破棄したからです。

このことは例えば

「ホセア書」13章や次の「エレミヤ書」の箇所にもよく表現されています。

 

「もし人がその妻を離婚し、

女が彼のもとを去って、他人の妻となるなら、

その人はふたたび彼女に帰るであろうか。

その地は大いに汚れないであろうか。

あなたは多くの恋人と姦淫を行った。

しかもわたしに帰ろうというのか」と主は言われる。」

(「エレミヤ書」3章1節、口語訳)

 

このようにイスラエルの民は

時と場合に応じて様々な国々と契約を結ぶことによって

幾度となく主なる神様を捨ててきたのです。

 

「邪悪で罪深いこの時代にあって、

わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、

人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、

その者を恥じるであろう」。」

(「マルコによる福音書」8章28節、口語訳)

 

このイエス様の厳しい言葉は

主に対するイスラエルの民の不貞行為に関係しています。


イエス様の時代のユダヤ人社会では

離婚が特に多かったというわけではありませんが、

多くの人が離婚したのもたしかです。


当時のユダヤ教の専門家であるラビたちによる恣意的な律法解釈が

離婚するのを事実上正当化していたからです。


ここでイエス様は

イスラエルの民が主との契約を一方的に破棄して「離婚」するという

深刻な罪の中にあることを指摘しておられます。


神様との契約を破棄することは

神様がお遣わしになったメシアすなわち救世主を捨てることにもなります。


そしてここでヤコブは

新約の民であるキリスト信仰者も旧約のイスラエルの民と同様に

「不貞」の問題と無関係ではないことを強調しているのです。


他の一般の人々だけではなくキリスト信仰者もまた、

神様に敵対する諸力やこの世や悪魔とさえ行動を共にする

「契約」を結んでしまう誘惑をかつても今も受け続けてきました。


しかしキリスト信仰者は同時に二人の主人に仕えることはできません

(「マタイによる福音書」6章24節)。


そのような真似をすれば、ちゃんと前に進むことができなくなるからです。


にもかかわらず、多くの人は

そのような生き方を選んでしまっているようにも見えます。


旧約の民も預言者エリヤから次のような二者択一を迫られた時に

黙り込んでしまいました。

 

「そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、

預言者たちをカルメル山に集めた。

そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、

「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。

主が神ならばそれに従いなさい。

しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。

民はひと言も彼に答えなかった。」

(「列王記上」18章20〜21節、口語訳)

 

ヤコブは自分の伝えようとする考えの正しさを二つの引用によって強調しています。

一つ目の引用は次のものです。

 

「それとも、

「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」

と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。」

(「ヤコブの手紙」4章5節、口語訳)

 

この箇所は旧約聖書外典からの引用であるとも言われています。


次に挙げる二つ目の引用は旧約聖書の「箴言」3章34節からのものです。

 

「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。

であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。」

(「ヤコブの手紙」4章6節、口語訳)

 

「ヤコブの手紙」4章5節の言う

神様が「ねたむほどに愛しておられる」「わたしたちの内に住まわせた霊」

とはいったいどのような霊なのでしょうか。


答えは二つ考えられます。

一つ目の答えは「聖霊様」です。

二つ目の答えは天地創造のときに神様が人間に賜った「命の息」です

(以下の引用箇所を参照してください)。

なお旧約聖書のヘブライ語では

「霊」と「息」とは同じ言葉(「ルーァハ」)で表現されます。

 

「主なる神は土のちりで人を造り、

命の息をその鼻に吹きいれられた。

そこで人は生きた者となった。」

(「創世記」2章7節、口語訳)

 

ユダヤ教の聖書学者たちは、

人間は死んだあとでその霊が命の授け主なる神様の御許に帰還していく

と教えました。


この解釈に従って「ヤコブの手紙」を読むと、

神様が御自分の被造物である人間全員に深い関心を注いでおられることや、

彼らのうちのただ一人として

悪魔の手に渡ってしまうのを望んではおられないことがはっきり伝わってきます。

 

一方、

「ヤコブの手紙」4章5節では聖霊様のことが語られている

と考える場合には、

キリスト信仰者が救い主に対して忠実であり続けることの大切さが

ここで強調されていることになります。