2022年7月4日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 自己中心さは争いの種を撒き散らす(その1)

 自己中心さは争いの種を撒き散らす(その1)

「ヤコブの手紙」4章1〜6節

 

「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。

それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。」

「ヤコブの手紙」4章1節、口語訳

 

この節でヤコブはある特定の争いを指しているのか、

それともたんに修辞的な表現で問題を提起しているのかについては

研究者の間で意見が分かれているようです。

どちらの場合であったにせよ、

ヤコブがここで描写している教会の状態は実に暗澹たるものです。

これは当時の教会の実情をよく反映していました。

残念なことに、現代の教会の状況も当時とそれほど変わっていないと思います。

 

教会の抱えるこの問題の原因のひとつとして

ヤコブは人間の自己中心さを挙げています。

ここで言う「自己中心さ」とは、

人が自分に利益をもたらすことばかりを追い求め、

教会にとって有益なことには見向きもしないことです。

他の人を妬む心は多くの人間の抱えている問題であるとも言われます。

「妬み」とは、

自分も何かしらは得ているということでは満足できず、

他の人と比べると自分だってもっともらえるはずなのに

そうなっていない不満を訴える心のことです。

 

ところで、あるキリスト信仰者は次のように祈りました。

「どうか私たちに

他の人々が受けている祝福を素直に喜べる心持ちと、

他の人々が祝福を受けることで

私たちが彼らから何かを奪われるのではないことを

冷静に理解する心をお与えください」。

このような健全で公正な態度を教会は絶えず必要としています。

 

「求めても与えられないのは、

快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」

(「ヤコブの手紙」4章3節、口語訳)

 

この節でヤコブは、

神様からの答えをいただけない祈りもあるというテーマを扱っています。

次に引用するイエス様の教えがこの背景にあるのは確実だと思われます。

 

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、

門をたたく者はあけてもらえるからである。」

(「マタイによる福音書」7章7〜8節、口語訳)

 

神様はすべての祈りに答えてくださるはずではないのでしょうか。

祈り求める者たち皆が望み通りの祈りの答えを得るとはかぎらないのは

いったいどうしてなのでしょうか。

この疑問に対してヤコブは

「あなたが自分の欲望を満足させるためだけに何かを神様から祈り願う場合、

神様は善なる御意思により、あなたにそれをお与えにはならない」

と答えます。

それとまったく同じことをイエス様御自身も教えておられます。

 

「そこでわたしはあなたがたに言う。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、

門をたたく者はあけてもらえるからである。

あなたがたのうちで、父であるものは、

その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。

卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、

自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、

天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。」

(「ルカによる福音書」11章9〜13節、口語訳)

 

よい父親は我が子にパンの代わりに石を与えたりはしないし、

魚の代わりに蛇を差し出したりもしないものです。

ともすると私たち人間は

自分にかえって害となるようなものを祈り願うものです。

ですから、

神様がそのようなものを私たちにお与えにならないのはよいことなのです。

 

そもそも祈りとは、

祈る者自身の欲求や快楽を追求するための手段ではありません。

真の祈りには常に

「神様、どうかあなたの御心がなりますように!」

という祈りが含まれています。

 

神様から答えをいただけない祈りはありません。

神様は各人の祈りを聴いてそれに答えてくださいます。

しかし、その答えは

いつも私たちの期待している通りのものとはかぎらないのです。

神様は「よし!」と答えてくださるときもあれば、

「否!」と言われるときもあり、

「まだだ!」とか「待て!」と返答してくださる場合もあります。

この「ヤコブの手紙」ガイドブックの著者にとって

個人的に一番苦手な答えは「待て!」です。

「否!」と言われるほうが「待て!」という答えよりも好ましいくらいです。

だめであることがはっきりすれば、

この祈りの件はとりあえず片付いたことになるからです。