2021年6月2日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック  聴き入れられたヨナの宣教 3章5〜9節(その2)

 聴き入れられたヨナの宣教 3章5〜9節(その2)

 

ニネヴェでは人間のみならず動物さえも荒布をまとい、断食し、

ひたすら神に呼ばわりました(3章7〜8節)。

荒布を身にまとったり断食したりすることはこの世的な快楽を捨て去ることであり、

悔い改めの具体的な表現でもありました。

預言者ヨエルも同じような悔い改めをイスラエルの民に要求しました

(「ヨエル書」2章12節以降)。

しかし、ヨエルの言葉は人々に聞き入れられませんでした。

 

「ヨナ書」のこの箇所では「アッシリアの王」ではなく

「ニネヴェの王」という表現が用いられています。

一般的なのは「アッシリアの王」という呼称のほうです。

この点に研究者たちは注目しました。

アッシリアの歴史を研究するうちにわかったことがあります。

当時のニネヴェの王の権力はまだ不安定で、

その実質的な国土も広大なものではありませんでした。

その意味では

「ヨナ書」で用いられている「ニネヴェの王」という表現は的確だったと言えます。

 

アッシリアの年代記には「ヨナ書」が伝える出来事についての言及がありません。

そのために、一部の研究者たちは

「もともとそのようなことは起きなかった」と主張しました。

しかし、この問題については次のふたつの点を考慮に入れるべきでしょう。

第一に、

ちょうどこの時期(紀元前700年代の前半)にあたるアッシリアについて

私たちがもっている知識はきわめて不十分なものであるということです。

第二に、たとえば

「ヨナの宣教によって起きた大規模なリヴァイヴァル運動はその後も継続されていった」

とか「ニネヴェの人々は旧約の主なる神様の僕となった」といった記述は

「ヨナ書」には見当たらないということです。

 

「あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、

われわれを滅ぼされないかもしれない。

だれがそれを知るだろう。」

(「ヨナ書」3章9節、口語訳)

 

この3章9節は興味を引きます。

ニネヴェの人々は神様が全能なるお方であることを認めて

それを公に告白していることになるからです。

すでに1章で見たとおり、

異邦人の船乗りたちもこれと同様の信仰告白をしていることに注目しましょう。

 

「そこで人々は主に呼ばわって言った、

「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。

また罪なき血を、われわれに帰しないでください。

主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです。」

(「ヨナ書」1章14節、口語訳)

 

ヨナの宣教において福音は奥深くに隠されており、表面には見えません(3章4節)。

この福音は40日間の「待機時間」にのみ啓示されたものです。

しかし、それで十分でした。

神様は御言葉を通してニネヴェの人々に働きかけてくださったのです。

神様は福音のごくわずかのかけらをも祝福することができます。

キリスト信仰者となった私たちにとって、このような「かけら」としては、

たとえば子どもの頃聞いた家庭での夜のお祈り、

教会の子ども会で耳にした御言葉の簡単な説明、

学校などで学ぶ機会のあったキリスト教についての説明、

教会の堅信キャンプでの聖書の学びなどがあげられるでしょう。

現代なら

インターネットを通して読んだり聴いたりする機会のあった聖書や

それについての説明などもそうした「かけら」に加えられることでしょう。

 

はたして私たちは福音を聴き取ることが十分によくできるようなやり方で

まわりの人たちにキリスト教信仰を伝えているでしょうか。