2020年3月18日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は憐れんでくださいます 「詩篇」102篇13〜29節

 神様は憐れんでくださいます 「詩篇」102篇13〜29節

これまで見てきたように、
苦しみを扱うこの「詩篇」の箇所は三つの視点から解釈することができます。
これら三つの視点は、
希望について語っているこの「詩篇」102篇の終わりの部分にも
ある程度適用することができます。
これらの視点に共通しているのは「神様は全能なお方である」という理解です。

天と地はいつか消え去ります。
人間が着替えをするように、天地はいずれ何か別のものに変わります。
しかし、神様はいつまでも変わることがなく、
御自分の民を助けることがいつでもおできになります。
このようにして、個人の態度は嘆きから希望へと変化します。

この「詩篇」が語る希望は
自分が所属する国の民の繁栄と同一視されているようにも見えます。
しかしその一方で、この「詩篇」は数千年もの間、
「詩篇」の読者各人の信仰生活の観点からも解釈されてきました。

私たちが現代における「詩篇」の意義を考察する場合に
「詩篇」は自国民に関連付けて読み解かれる傾向があります。

異国の地における捕囚の民としての生活や、
自国民が虐げられている現状は、
神様がイスラエルの民にお与えになった「最後の一言」ではありませんでした。
この「詩篇」は現代の私たちにも関わりのある大切な希望のメッセージなのです。

主はその聖なる高き所から見おろし、
天から地を見られた。
これは捕われ人の嘆きを聞き、
死に定められた者を解き放ち、
人々がシオンで主のみ名をあらわし、
エルサレムでその誉をあらわすためです。
その時もろもろの民、もろもろの国は
ともに集まって、主に仕えるでしょう。
(「詩篇」102篇20〜23節、口語訳)

この「詩篇」によれば、
エルサレムが再建されて神様の偉大なる御業が宣べ伝えられる
「シオンの時」がとうとう訪れました。
諸々の国民や王たちは主の御名に跪いてしまうけれども、
主の民は故郷への帰還を許可される時がついに到来したのです。
詩篇朗唱者の子孫たちは代々「神様の都」に住めるようになりました。
この「詩篇」に記されている約束すべては数十年後に実現しました。
詩人の希望はむなしく終わることがありませんでした。

マルティン・ルターは
旧約時代に生きた「キリスト信仰者たち」が恵みを待望するさまを
本文から読み取りました。
彼の視点はこの「詩篇」の終結部には次のように適用することができます。

私たちには預言者たちや使徒たちを通して語りかけてくださる
唯一の神様がおられます。
恵みの道はただ一つです。
それは、キリストが私たちに開かれた道です。
キリストの御業はすでに旧約聖書において予告されており、
新約聖書において啓示されています。
旧約聖書におけるメシア(救世主)に関連する預言と一連の「詩篇」は
救いをキリスト(救世主)に直接結びつけています。
この「詩篇」も含めその他の多くの箇所は、
神様のかぎりない恵みを受け入れて、
いつかふたたび神様が「主の民」を敵どもから救ってくださることを
確信するようにと私たちを導いてくれます。
キリストが十字架の死と復活によって
罪と死と悪魔の力を粉砕なさったおかげで
この救いの御業はすでに成就されているのです。
そして、私たちはこのことを聖書から学び知ることができます。