2020年3月11日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 苦しむ者の受ける圧迫 「詩篇」102篇1〜12節(その2)

苦しむ者の受ける圧迫 「詩篇」102篇1〜12節(その2)

私たちにとって親近感が湧くであろう、この「詩篇」の理解の仕方は、
おそらく第二の視点によるものではないでしょうか。
これは
「神様の民全体としての罪の呵責と、周囲からの圧迫とがここでは語られている」
という解釈です。
罪と悪い行いをやめるように、
神様はそれまで何度も繰り返して御自分の民に警告してこられました。
ところが、民は耳を貸そうとはしなかったのです。

現代では「キリストのもの」である教会が
「神様の新しい民」を構成しています。
この民に対しては、使徒パウロを通して次のような警告が与えられています。

「もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、
あなたを惜しむようなことはないであろう。」
(「ローマの信徒への手紙」11章21節、口語訳)

旧約の民は神様から示された道から迷い出た結果として、
幾度も神様の厳しい怒りを受けることになりました。
それに対して、
新約の民には復活された主の警告が与えられています。
主は御自分の民の只中に「真夜中の盗人」のようにやって来られて
「神様の家」から裁きが始まるという警告です。

主は個々のキリスト教会に向けても警告を発しておられます。
神様が「教会の燭台をその教会から取り除く」
すなわち教会を全体として最終的に捨て去る場合がありうるという警告です。

これらの言葉は私たちにとってどのような意味をもっているのでしょうか。

キリスト教会につながっていながらも
神様の戒めに反した身勝手な生き方をすることが
何か当たり前のようになってはいませんか。
教会としても、またキリスト信仰者ひとりひとりの生活においても、
聖書の御言葉に反した行為がきわめて危険であることには変わりがありません。
しかし、このことがもはやはっきりと認識できなくなってきてはいませんか。
現代の教会やキリスト信仰者が
「ざんげ」の心のない自堕落な信仰生活を続けている場合には、
彼らが神様の怒りを招いてしまうのは当然ではないでしょうか。
教会全体も各教会員も皆が心を一つにして
罪を悔い御子を信じるべき時が今や来ているのではないでしょうか。

聖書の御言葉を一笑に付したり、
自分の判断で物事を進めたりするのは
「ルター派」の名にはまったく値しない態度です。