神様が賜る義によって私たちがいただけるものとは? 5章1〜5節
キリストが私たちにくださった賜物としての義は、どのようなものでしょうか。
それは、
神様が無言のまま首を縦に振ることで、
私たちは罪の呵責から解放されはするが、孤独のままとり残される、
というようなものではありません。
恵みにより私たちは罪を赦していただいたので、
神様に対する私たちの反抗は終わっています。
この戦いの後には、神様との仲直りと平和が訪れました。
しかもこれは、たんなる感情の上の問題ではなく、
人間と神様の間の根本的な敵対関係が実際に終焉したことを意味しています。
私と神様との間の関係は今やしっかり正されているのです。
もしも神様の御言葉自体が私たち皆にこのことを証していなかったとしたら、
いったい誰がここまではっきりと言い切ることができることでしょうか。
私たち人間は実にひどく神様との関係を錯乱させてしまったにもかかわらず、
御子キリストがそれを御自分の血によって整えてくださったおかげで、
私たちと神様との関係は正常化されました。
まさにこのゆえに、
私たちには今、神様の輝く栄光にあずかる希望がもてるのです。
私たちはこうして、神様の善き御手に守られて生きて行く時に、
困難なことや辛いことについても感謝する大切さを学んでいきます。
これらの試練を通しても、神様は私たちを教え導いてくださるからです。
それによって忍耐が生まれ、
忍耐から試練に耐える力が生まれ、
そこからさらに希望が生まれてきます。
このように、神様の御国に属する者たちは、
この世の人々には到底理解できない特別な生き方を学ぶことができます。
「 神様は善い存在か悪い存在か」、という質問に対して、
一般的に人々は、
彼ら自身がこの世でどのような境遇におかれてきたか
に基づいて判断するものです。
この世がその暗い面を彼らに見せつける場合には、
神様がその諸悪の根源であるとみなされます。
飢饉や苦しみについて、神様を責め立てるのです。
しかし、神様の御国に属する者たちは、それとは異なる人生の教育を受けます。
人は、病床に臥せっていたり、苦しみの只中にあったりする時にこそ、
弱く罪深いその人を担い続けてくださっている神様に対して、
自ずと純粋な感謝の気持ちで満たされる、ということがよくあります。
これは、
その人が、どのような苦しみの中でも
師なる神様の慰めに満ちた御手を身近に感じる術を習得しているからです。
とはいえ、この問題について公に話すことは、控えめにしましょう。
というのは、苦しみの問題は書斎で学べることではなく、
神様からいただく人生の学校で徐々に習得して行くべきことがらだからです。