2014年6月9日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章9〜12節 割礼についてどう考えるべきでしょうか?


割礼についてどう考えるべきでしょうか? 4912

パウロは、神学者として正確に「狙い撃ち」を続けます。
アブラハムはユダヤ人の祖先と言われています。
そして、割礼は彼の子孫の間で「契約の印」と見なされています[1]
この印に基づいて、アブラハムの子孫は異邦人から区別されています。
しかし、ここでパウロは、
アブラハムのことをその信仰に基づいて
神様が義と見なしてくださった瞬間に注目します。
この出来事は、アブラハムが割礼を受ける前でした。
ですから、信仰によって義と見なされる、という約束は、
割礼を受けているユダヤ人に対してだけではなく、
神様が罪を赦してくださったことをアブラハムと同じように信じている、
割礼を受けていない異邦人に対しても当てはまることになります。

この箇所のメッセージは、
モーセの律法に従うことが神様の恵みをいただくための前提条件ではない、
ということです。
モーセの律法は、ある目的のためにひとつの国民に与えられたものです。
ユダヤ人ではない私たちがそれに従う必要はありません。
それに対して、
ユダヤ人ではない私たちも従わなければならない教えは、
例えば十戒などの旧約聖書における倫理的な律法であり、
イエス様の教えであり、また使徒たちの教えです。




[1] 「創世記」17914節にこうあります、
「神はまたアブラハムに言いました、
「あなたとあなたの後の子孫とは、代々、
私の契約を守らなければなりません。
あなたがたのうち男子はみな「割礼」を受けなければなりません。
これは、私と、あなたがた及びあなたがたの後の子孫との間で、
あなたがたが守るべき私の契約です。
あなたがたは男性器の包皮の先端の部分を切り取られる
「割礼」を受けなければなりません。
それが、私とあなたがたとの間の契約の印となります。
あなたがたのうちの男子は皆、代々、
家に生れた者も、また、異邦人から銀で買い取った、あなたの子孫でない者も、
生れて八日目に割礼を受けなければなりません。
あなたの家に生れた者も、
あなたが銀で買い取った者も必ず割礼を受けなければなりません。
こうして、私の契約は、
あなたがたの肉体における永遠の契約となるでしょう。
割礼を受けていない男子、すなわち、
男性器の包皮の先端部分を切り取らない者は、
私の契約を破るゆえ、その民のうちから断たれるでしょう」。(訳者註)

2014年6月4日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章2〜8節 信仰の父、アブラハム


信仰の父、アブラハム 428
  
 
パウロは、アブラハムと神様との間の関係を深く考究します。
アブラハムが神様の御前で義とされたのは、
彼が神様の律法に従って生きたからでしょうか。

そうではありません。
なぜなら、彼は、
自分が正しく生きたとは一度も自慢していないからです。
それに加えて、聖書は、
「アブラハムは神様を信じました。
主はそれを彼に対して義と認められました」、
と記しているからです(「創世記」156節)。

正しく生きた人は、
誰からも「義と認められる」必要などはないでしょう。
なぜなら、
そのような人はすでに義人のはずであり、
このことに関して信仰が出る幕はないからです。
ところが、今ここで論じられているのは、
信仰の義についてなのです。

パウロによれば、
アブラハムは、神様の恵みに疑いを抱いた時、罪の状態に陥りました。
主はアブラハムに話しかけ、大いなる報酬を約束してくださいました。
それに対して、アブラハムは
「主なる私の神様、あなたは私に何をくださると言うのですか」、
と反抗的に答えます。
「神様は、私がすっかり年老いるまで
跡取り息子をくださらなかったのだから、
他のどんなものをいただいたとしても、私には無益だ」、
と彼は考えたのです。 
アブラハムは、自分が神様に不当に扱われている、と感じています。
それで、反抗的な態度を取ったのでした(「創世記」1516節)。

神様は、
そのようなアブラハムを天幕の外に連れ出して、
彼に満天の星空を見せます。
ちょうど天にたくさんの星があるように、
アブラハムにもたくさんの子孫が与えられることを
お示しになるためでした。
アブラハムは反抗心を捨てて、神様を信じました。

パウロによれば、
この信仰が、アブラハムと神様との間の関係の基本にあります。
神様はアブラハムの反抗の罪を赦し、
その罪を彼自身に負わせることはなさいませんでした。


アブラハムの出来事の教訓は、非常に単純なことです。
たしかに、私たちは罪深い人間です。
しかし、私たちは、
神様のくださる恵みと罪の赦しに信頼することができます。
そして、キリストにしっかりつながっている限り、
私たちも、かつてのアブラハムと同じように、
神様に対する信仰の関係を保って、活き活きと歩むことができるのです。

2014年6月2日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章1節 アブラハムが見つけたもの(その2)


アブラハムが見つけたもの 41節(その2)


旧約聖書と新約聖書の間には、共通した言葉遣いがあります。
しかし、フィンランド語版聖書の新しい訳(1992年)では、
そうした言葉遣いを意図的に別々に訳し分けることによって、
旧約と新約との間のつながりが
見えにくくなってしまっているケースがあります。

キリスト教徒は
旧約聖書を恣意的にキリスト教の書物として取り扱ってきた、
という批判的な考え方が、
プロテスタントの神学では長い間にわたって影響力をもってきました。

その一方では、新約聖書と旧約聖書とを、
それらの用語上の共通点にも注意を払いつつ、
できるだけ正確に翻訳し、
両者のつながりを意図的に抹消するような真似をしない人々がいました。
彼らは、使徒的な聖書理解の伝統に則って、
キリスト教全体が旧約聖書に根ざしている、
という核心的なポイントをきちんと踏まえる姿勢を維持してきました。

旧約と新約の聖書のつながりを把握するか、
あるいは、それを切断するか、ということは、
実に、キリスト教会の今後のあり方を根本的に左右する大問題なのです。

2014年5月30日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章1節 アブラハムが見つけたもの(その1)


アブラハムが見つけたもの 41節(その1)
  
 
この節は、
「私たちの民の始祖であるアブラハムは何を見つけたのか、
と私たちは言えるでしょうか」、
と訳すのがより正しいでしょう。

パウロはこの質問を投げかけて、
すぐにはそれに答えようとはしません。
当時のユダヤ人の説教者たちは、
しばしばこのようなスタイルで教えました。

現代人である私たちは、
パウロが言わんとすることを汲み取れるでしょうか。
果たして私たちは、聖書を十分に知っているのでしょうか。
アブラハムは何を見つけたと言うのでしょう。

正解は「創世記」183節にあります。
それを文字通りに訳すと、
わが主よ、もし私があなたの御目に恵みを得ているなら、
どうか、あなたの僕[1]を通り過ごさないでください」、
となります。
これは古代のギリシア語七十人訳旧約聖書でも同じです。

アブラハムは恵みを見つけました。
こうして彼は、キリストの十字架に依り頼む人々皆にとって、
信仰の父となったのです。
この話題に、パウロは4章全部を費やします。



[1] アブラハムのこと。訳者注。