2008年1月22日火曜日

「結婚前の性的関係、同棲、結婚」と聖書

エルッキ・コスケンニエミ

とりわけクリスチャンの若者の間で一番興味をもたれまた大切なテーマは、聖書は結婚前の性的関係について、婚約について、またいつ結婚が正式に始まるかについて何を教えているか、ということです。
これから旧約聖書と新約聖書の背景、すなわち神様の御言葉をふまえて、このテーマを考えてみることにしましょう。

フィンランドの現在の状況を考えるために、その歴史的背景を知っておく必要があります。フィンランドでは「同棲」が社会的制度として認められています。それは1960年代までは非常にまれだったものの、その後急速に増え広がりました。この一般的な状況の変化とともに、教会の一般的な教えは「結婚前の性的関係が罪である」ことに対して確信を失ってしまいました。議論の的となったのは「結婚が正式に始まる瞬間」です。
「結婚に基づく性的関係は本当に結婚式での「牧師のアーメン」の後から始まるのだろうか。結婚前に一緒に生活することを試してみてもよいのではないか。外面的な「結婚式」という儀礼などなくても。その代わりに当事者同士で交わされた約束で十分ではないか」などという主張がなされました。


1.旧約聖書

旧約聖書は「結婚」を非常に敬い大切にしています。このことはすでに創世記の2章にあらわれており、結婚が社会における基本的な単位を構成していることを告げています。興味深いのはこのことを裏付ける次の規定です。婚約したばかりの男性は戦争に参加してはならず、自分の妻のそばにいなければなりませんでした。

「女性と婚約して、まだその女性と結婚していない者があれば、その人を家に帰らせなければなりません。そうしなければ、彼が戦いで死んだ場合に、他の人が彼女と結婚するようになるでしょう。」(申命記20章7節)

旧約聖書の世界では多くの点で家族の父親が中心的な役割を担っています。中近東での一般的な慣習と同様に、イスラエルでも両親が自分の子供の結婚式の準備をしたと思われます。もっともモーセの律法はこのことについては何の規定も設けてはいませんが。

旧約聖書の世界では「結婚する時に花嫁は処女でなければならない」ことは自明でした。結婚する時に花嫁が処女ではなかった場合について、申命記22章20~21節は花嫁に対して死刑を定めています。この規定は創世記38章のユダとタマルの出来事にも関わっています。

重大で死刑にあたる犯罪としては他に「姦淫の罪」がありました。これは結婚している男性が他の人の妻と性的関係を持つことを意味しています。一方で、旧約聖書には男たちが道端の娼婦と性的関係をもちながらも罰せられなかったように見える記述があります(たとえば前述の創世記38章のユダの振る舞い)。このように旧約聖書は中近東の(男性と女性に対して別々の)「二重道徳」を浮き彫りにしていますが、モーセの律法にはそのような二重道徳を正当化するような規定はまったくありません。


2.新約聖書

A) どのように人々は結婚しましたか。

ユダヤ人たちの結婚はおそらくすでにイエス様の時代に三つのことなる段階を経て実現しました。まずはじめに「婚約」です。人が婚約する時に花嫁と花婿の両親は結婚式について話し合って決めます。この後に花嫁の家で証人を前にして結婚の誓約がなされ、花婿は花嫁に贈物を届けます。性的な肉体関係はまだ許されていませんでしたが、この段階では結婚を取り消すことはもはやできませんでした。第三番目の最後の段階はおそらくそれから一年たってようやく実現しました。その時にけたたましい歓喜に包まれた結婚式のお祝いの中で花婿と花嫁は最終的に「結婚」しました。その日には友人たちが花嫁を花嫁の家でお祝いの服に着替えさせます。そして花婿の訪れを待ち始めます。花婿が友達と共に姿を見せると、中東的なにぎやかな結婚のお祝いが始まります。そこでは花嫁と花婿は喜びを分かち合っている周りの人たちによって彼らの新居に運ばれていきます。

私たちはこのような「結婚」の仕方に聖書のいろいろなテキストの中で出会います。マリアとヨセフは婚約していました。しかし、ヨセフはマリアに生れようとしている子どもがヨセフの子ではないことを知っていました。なぜなら、結婚前に性的関係をもつことは許されてはいなかったからです。イエス様は結婚のお祝いを、御自分の再臨や最後の裁きや天国での大いなる喜びを教える譬えのイメージとしてしばしば用いておられます。


B) 御言葉

このテーマに関係している新約聖書のもっとも重要な(ギリシア語の)言葉は「モイケイア」や「ポルネイア」やこれらの言葉と似た意味を持つ他の言葉です。

「モイケイア」は聖書では「姦淫」と訳されることが多くあります。そして「姦淫」は当然罪であるとして裁かれています。たとえばコリントの信徒への第1の手紙6章9~11節には人が神様の御国を受け継ぐことができなくしてしまうようないろいろな罪が挙げられており、姦淫もそのリストの中に入っています。しかしこのことは、旧約聖書がユダヤ人の信仰に与えている背景を知っている者にとっては驚きではありません。

もうひとつの言葉「ポルネイア」は「不品行」と訳されています。「モイケイア」が姦淫の罪に関係しているのに対して、「ポルネイア」は結婚の外部でなされる(男女間の)性的関係を意味する一般的な言葉です。この言葉はまたときには姦淫を意味することもあります。この言葉の基となっているのは「ポルネー」という言葉で、非常に古い歴史をもつある種の職業で自分を養っている女性のことを意味しています。つまりこの言葉の意味にははっきりとした色付けがなされています。そして、これらを聖書は厳しく罪に定めているのです。
さて今度は神様御自身が語られていることを聴きましょう。

「すなわち内部から、人々の心の中から、悪い思いが出て来ます。不品行(ポルネイアイ)、盗み、殺人、 姦淫(モイケイアイ)、貪欲、邪悪[1]、欺き、好色、妬み[2]、誹り、高慢、愚痴。」(マルコによる福音書7章21~22節)

「それとも、あなたがたは正しくない者たちが神の国を受け継ぐことはないのを知らないのですか。まどわされてはいけません。不品行な者たち(ポルノイ)、偶像を礼拝する者たち、姦淫をする者たち(モイコイ)、男娼となる者たち[3]、男色をする者たち[4]、盗む者たち、貪欲な者たち、酒に酔う者たち、そしる者たち、略奪する者たちは、いずれも神様の御国を受け継ぐことはないのです。」(コリントの信徒への第1の手紙6章9~10節)

「不品行(ポルネイア)を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にあります。しかし不品行をする者は自分のからだに対して罪を犯すのです。「あなたがたのからだは神様からいただいてあなたがたの内に宿っておられる聖霊様の神殿であって、あなたがたは自分自身のものではない」ということをあなたがたは知らないのですか。あなたがたは大きな代価を払って買いとられたのです。それだから、自分のからだをもって神様の栄光をあらわしなさい。」(コリントの信徒への第1の手紙6章18~20節)

「私が再びそちらに行った場合、私の神様があなたがたの前で私をへりくだらせることにならないでしょうか。そして、前に罪を犯していた多くの人たちが、その汚れと不品行(ポルネイア)と好色の中に活動を続け、それらを悔い改めもしないので、私は悲しむことになりはしないでしょうか。」(コリントの信徒への第2の手紙12章21節)

「肉の働きは明白です。すなわち、不品行(ポルネイア)、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、自分中心のグループを作ること、違った考え、異端、ねたみ、泥酔、度を過ごしたパーティー、またそのたぐいのことです。私は以前も言ったように、今も前もって言っておきます。このようなことを行う者は神様の御国を受け継ぐことがありません。」(ガラテアの信徒への手紙5章19~21節)

「また、不品行(ポルネイア)やあらゆる汚れや貪欲については、あなたがたの間では口にすることさえしてはなりません。そうするのが聖徒にふさわしいことだからです。」(エフェソの信徒への手紙5章3節)

「神様のみこころは、あなたがたが聖くなり、不品行(ポルネイア)を避け、各自、気をつけて自分のからだ(スケウオス、器)を聖く尊く保つことです。」(テサロニケの信徒への第1の手紙4章3~4節)

上に挙げた聖書の箇所の言い方には非常に厳しいものがあります。「不品行」を行う者(男性も女性も)について、彼らは神様の御国を受け継ぐことができない、と何箇所かで言われています。性的肉体関係は結婚にのみ属することです。ヘブライの信徒への手紙13章4節で言われている通りです。

「結婚はあらゆる点で尊いことです。また夫婦の寝床は汚れなく保たれるべきです。なぜなら、神様は不品行な者たち(ポルヌース)や姦淫をする者たち(モイクース)をお裁きになるからです。」(ヘブライの信徒への手紙13章4節)


C) クリスチャンではない人たちの結婚

興味深くまた大切なのは、聖書に根ざしている教会でその初期から今に至るまで続いている考え方です。海外宣教を行っている教会はクリスチャンではない人たちの結婚をまじめに受け止めてきました。コリントの信徒への第1の手紙7章は「夫婦のうち片方がクリスチャンでもう片方がクリスチャンではない場合、信仰者の方が信仰者ではない方を見捨ててはいけない」と明瞭に指示しています。この教えは、結婚がたんに人間の信仰に基づくものではなく、神様御自身が結婚を設定なさったことに基づいています。こうした理由から、たとえばクリスチャンになった夫婦を再び教会で結婚させることはありません。たとえば他の宗教のどのようなやり方で結婚式がもたれたにせよ、彼らはすでに「結婚」しているのです。


3.私たちは?

神様を見出した人たちにとって、結婚前の性的関係や結婚の外部での性的関係は重い罪です。現代どれだけ多くの人々が私たちの周りでそうしたことを行っているとしても、それらが罪であることはかわりません。

聖書が「結婚という制限を越えた性的関係」を拒絶している理由を、「神様はこの世界に結婚の外部で生れた子どもたちを望まなかったからだ」と説明付ける人たちがいます。「しかし、避妊の技術が発達した今、もはや以前と同じ問題はない」と言うのです。しかし、このように神様のお定めになったことの「背後」からこの問題を理解するための理由を探り出そうとするのは、非常に危険なことです。イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じです。この御言葉はもともとの文脈(ヘブライの信徒への手紙13章8節)の中では、「主はいつも同じなので、クリスチャンに与えられている規定もまたかわることがなくいつまでも同じだ」ということを意味しています。

それでは、私たちクリスチャンの結婚はいつ始まるのでしょうか?牧師が「アーメン」と宣言したときでしょうか?この世にはどうとでも解釈できることがらがいろいろあります。
しかし、「人が結婚しているかしていないか」ということはそうではありません。結婚は社会的なことがらであり、役人や法律家や結婚している本人がちゃんと知っていることです。人は結婚しているかしていないかのどちらかです。私は牧師としてたくさんの夫婦の結婚式の司式をしてきましたが、「結婚した」のは一回だけ、自分の結婚だけです。結婚式を司式するときに、結婚するのは私ではなく、結婚しようとしている夫婦です。私は彼らが互いに相手を結婚相手として受け入れ、結婚の責任と義務とを担う意志があるかどうか、彼らにたずねます。もしも彼らがそうする意志がある場合には、彼らは結婚したのです。牧師としての私の責任は祈ることであり、結婚式のあとで賓客を祝会のほうへと導くことです(もしも結婚式のときに「花嫁ミサ」を執り行わない場合には)。「同棲」は、それがたとえ社会制度的に認められている場合であっても、クリスチャンにとっては結婚前の性的関係にほかならず、罪なのです。

この小文の目的は、聖書が「結婚前の性的関係や同棲や結婚」について何を教えているか、はっきりさせることでした。こうした問題に関係して実際に起きてしまっている「混乱」に対してどのように対処していくべきかについては、また別に考える必要があります。こうした「混乱」を悪化させたのは、フィンランドの教会内にあるこのテーマに関する間違った教えです。「聖書によれば結婚前の性的関係は間違ったことであり罪である」ことを知っている人が今やいったいどれほどいるでしょうか。

主イエス様が罪人たちに対して、とりわけこの問題の領域で間違った道を歩んでいた人たちどのような態度を取られたか、ここで思い起こしましょう。いろいろな男たちにもてあそばれた女性がファリサイ派の家におられたイエス様のみもとに来て、それまでの自分ののろわれた人生と間違った生き方を涙と共に注ぎだしました。イエス様は彼女がそうするままになさいました。そして彼女を追い払うようなことはなさいませんでした。

「そして、(イエス様は)その女性に、「あなたの罪[5]は赦されました[6]」と言われました。すると同じ食事の席に連なっていた者たちが心の中で言いはじめました、「罪[7]を赦す[8]ことさえするこの人は、いったい何者だろう」。しかし、イエス様は女性にむかって言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです[9]。平和の中に行きなさい」。」
(ルカによる福音書7章48~50節)

以下の註は訳者によるものです。
[1] ここまでは複数形です。
[2] 「妬み」を直訳すると「悪い目」です。妬みの心は確かに目つきを悪くしますね。
[3] 「マラコイ」は男性の同性愛での受動的な役割の側を指します。
[4] 「アルセノコイタイ」は男性の同性愛での能動的な役割の側を指します。
[5] 複数形。
[6] 受動態完了形。
[7] 複数形。
[8] 現在形。
[9] 完了形。

2008年1月7日月曜日

「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?

たとえばコリントの信徒への第1の手紙12章には「御霊の賜物」あるいは「恵みの賜物」についての教えがあります。今回はこの「恵みの賜物」について学びたいと思います。

「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?

ヤリ・ランキネン


私たちは聖書を大切にしたいと思っています。聖書は「恵みの賜物が存在する」と言っています。神様の御霊は私たちルター派の信仰にとってなじみの薄い賜物や必要ないと思われるような賜物も与えてくださいます。もしも私たちが聖書的であるならば、私たちはこのような賜物を否定したり軽んじたりはしません。またこれらの賜物を用いることに反対したりもしません。

一方では、恵みの賜物を間違って用いないように忠告することも「聖書的」です。恵みの賜物を重視しすぎないように忠告することもそうです。聖書は、恵みの賜物自体は認めていますが、それらを間違って用いないように忠告してもいるのです。

ですから、あなたも神様の御言葉を前にして、心を開きなさい。聖書が言っていることを読みなさい。この問題についても実際にはどういうことであるか、聖書に説明してもらいなさい。聖書に反していることは拒絶しなさい。聖書が教えていることを受け入れ身に着けなさい。たとえその教えがあなたにとって新しく、あなたが以前考えていたこととは違っているとしてもです。このように行うのは本当に難しい場合があります。しかし、それは「安全な道」です。神様の御言葉は私たちを間違った道へと迷わせたりはしません。

私たちは皆それぞれ互いに異なっています。信仰を感情に結び付けて、信仰生活の中でのある種の体験の大切さを強調する人たちがいます。信仰にかかわることがらを理性的に考えて、個人的な体験はそれほど求めていない人たちもいます。私たちの人生の背景もそれぞれ異なっているし、今信仰の道のどのような局面を歩んでいるかも、人によって違います。そして、こうした違いは人が恵みの賜物に対してどのような態度を取るかにも影響を与えます。この違いは認めなければなりません。神様の御言葉もそれを認めています。この違いは神様の教会の中の「豊かさ」でもあります。ただし、神様の御言葉に従ってすべての人は信じまた働かなければなりません。


恵みの賜物とは何でしょうか?

恵みの賜物にはいろいろなものがあります。聖書から私たちは多くの例を見出します。病気を癒す賜物、知識を分ける賜物、いつ神様の御霊が話しておりいつ何か他の霊が話しているかを見分ける賜物、異言で話す能力、預言すること、教えること、他の人たちに仕える意欲、教会を指導する能力、自分のものを提供する意欲、貧しい人たちを助ける意欲、などです。これらのものは恵みの賜物についてのいくつかの例です。聖書は恵みの賜物の完全なリストを提供しようとはしていません。神様の教会を築き上げ、それがこの世でその使命を遂行することができるように助ける能力は、すべて「恵みの賜物」だと言えるでしょう。賜物の中には私たちがもともともってはいないものもあります。たとえば異言で語ることです。私たちの創造主が私たちをおつくりになったときに、私たちに与えてくださった賜物もあります。賜物を受けた者はそれを教会に仕えるために利用することができます。そしてそのような場合には恵みの賜物は正しく用いられていることになります。たとえば音楽の才能はこのような賜物です。あるいは指導したり教えたりする能力もそうです。あなたにも賜物がきっとありますよ。それは普通の生活にかかわる地味なことかもしれません。その賜物によって神様の御国の働きに仕えなさい。それが恵みの賜物です。

「恵みの賜物」という言葉自体、それがどのようなものであるかを語っています。それらは人の業績によって分けられたりはしません。もしもそうならそれは業績の報酬になってしまいます。聖霊様はそれらの賜物を御自分のお考えに従って「与えたい」と思われる人にお与えになります。私たちはその神様のお考えを知りません。ですから教会において「誰にどんな賜物があり誰にないか」という基準によって人々に優劣の序列をつけるのはよくないことです。パウロは「神様の御霊は恵みの賜物をそれらを受けるのにもっともふさわしくないような人たちに与えてくださるものだ」と言っています。「神様は教会でほとんど評価されていない会員たちを栄光によって覆い包んでくださる」とパウロは言います。一般に人に重んじられるような「恵みの賜物」のない人たちは実はそれを必要ともしていません。そして彼らは教会で「欠くことのできない存在」なのです(コリントの信徒への第1の手紙12章24節)。


恵みの賜物は正しい信仰を保証するものではありません。

三位一体なる神様が知られていないか、あるいは拒絶されているところでも、異言で話したり病気が癒されたりする現象がおこることがあります。悪魔も奇跡を行うことができるからです。悪魔は自分の働きが神様の働きに似ているところでこそもっとも巧妙に人々をたぶらかすことができます。また、ときには神様は奇妙なやり方で働かれることがあります。人々が幾つかの点で御言葉に反して信じたり生活したりしているところにも神様は恵みの賜物をお与えになることがあるのです。コリントの教会はこのよい例です。パウロはコリントの教会にはいろいろな恵みの賜物がたくさんあることをほめています。そして、それらの賜物が神様からのものではないとは言っていません。しかしながら、パウロはコリントの教会が神様の御言葉から逸脱していることがらを、はっきり問題にしています。そして「教会がこれらの問題について悔い改めなければ、主が再び帰ってこられるときに裁きを受けることになる」と警告しています。「恵みの賜物があらわれるところではすべてが正しくよい」などという考えに目をくらまされてはなりません。あるいは「神様は恵みの賜物を与えてくださったのだから、何か御言葉に反したことを行っていてもそれを神様は認めてくだるだろう」などと考えてもいけません。また、恵みの賜物があらわれているからという理由で、幼児洗礼を認めない再洗礼派の人たちと共に活動することがあってはなりません。彼らには神様が生み出してくださった恵みの賜物があるかもしれませんが、彼らは洗礼について神様の御言葉に反して教えています。「もしも恵みの賜物が私たちの目をくらませ神様の御言葉に反して教えたり活動したりするようになれば、私たちは裁きを受けることになる」と神様の御言葉は私たちにも警告しています。


恵みの賜物は真の信仰の前提条件ではありません。

「恵みの賜物があるところにのみ、あるいは何か恵みの賜物をもっている人にのみ、真の信仰がある」というわけではありません。十字架につけられたイエス様についての福音には何も付け加える必要がありません。福音は恵みの賜物を必要とはしていません。救われて神様の子供として生きていくためには「福音」だけで十分なのです。このことを、とりわけ神様が恵みの賜物を分け与えなさっているところで、強調しなければならないでしょう。また、ある種の恵みの賜物をもっていない者が、周りからそれをもつようになるようそれとなく要求され、自分をだめな存在だと思い込んでしまうような環境でも強調するべきでしょう。たとえあなたが恵みの賜物を何ももってはいなくても、またそれについて何も知らなくても、あなたはイエス様を信じてよいのです。そして、十字架につけられた主イエス様への信仰の中に、あなたは「神様の子供として生きて、天国に入るために必要なすべてのもの」をすでにもっているのです。

聖書は「恵みの賜物を求めなさい」と命じています。聖書は単純な真理を言っています。すなわち、恵みの賜物をこいねがう者はそれをいただくのです。求めない者は得ません。この「求めること」は、強制ではありません。神様や他の人たちが強制するものではありません。それはへりくだった熱心な祈りです。私たちは恵みの賜物を求めてきたでしょうか?これからは信仰者の集まりで神様が私たちに教会が必要としている賜物を与えてくださるように声に出して祈るようにしたらどうでしょうか?こうすれば、恵みの賜物が教会の信徒たちにとって「自然な」ことになるでしょう。そして、祈りは恵みの賜物を正しく用いる道を開いてくれるでしょう。また、祈りは自分が祈っている内容に深くかかわっていくことでもあります。もしも私たちが恵みの賜物を神様から願い求めたのならば、私たちは「そんな賜物はいらない」とは言えないし、「その賜物を用いたくない」とも言えなくなります。私たちが本当に必要としていると神様が御存知なものを、神様が私たちに与えてくださるように願い求めるのが、知恵あるお祈りだと思います。その賜物は、もしかしたら自分では考えもしなかったようなものであるかもしれません。

聖書は恵みの賜物を用いないで隠しておくことを禁じています。ですから賜物を用いなさい。たとえあなたが自分の賜物を恥ずかしく思っていたり、他の人たちがそれを評価していなくてもです。神様は賜物をむなしくお与えにはなりません。教会はそれを必要としているのです。

私たちの信仰の中心は「ゴルゴタの十字架」です。そこだけに頼り避難することを学びなさい。あなた自身に頼ったりしないように。神様があなたの中で働いてくださっていることに気が付いて、それを誇ったりしないように。自分が受けた恵みの賜物やそれを用いることに振り回されないように。これはなかなか難しいことです。だから、学ぶ必要があるのです。ゴルゴタの十字架こそが決して揺るがない唯一の基です。自分の中に何もよいものがないと思ったり、恵みの賜物が弱ったり消え失せたりするような場合でも、ゴルゴタの十字架は立ち続けています。そのようなときでも、ゴルゴタの十字架には、私が救われるために、また神様の子供として生きていくために必要なすべてのものが含まれています。もしも私たちの信仰が何か他のものに基づいている場合には底が抜けてしまいます。しかもあっという間にあっけなく。

もしも恵みの賜物が信仰生活を支配するようになって、十字架以外の何かが一番大事なものになってしまうとき、恵みの賜物は間違って用いられています。実際にそうなる場合があるのです。その一方では、多くの人にとって恵みの賜物がその人とイエス様との関係を新たにし、イエス様の十字架を前よりもいっそう愛しいものにしてきたことも事実です。

パウロはコリントの信徒への第1の手紙の中で「恵みの賜物はそれ自体に価値があるわけではなく、それらのなかにまたそれらを通して、「愛」が、イエス様が私たちを愛してくださったのと同じ愛があらわれる場合には価値があるのだ」と教えています。人は恵みの賜物を間違って用いることで、他の人たちを自分より下に圧迫したり忘れ去ったり、自分の利益を求めたりするようになります。しかしそれは、パウロによれば、誰かが時々思い出したようにドラムを打ち鳴らすのと同じことです。多くの人はドラムの音を聞きますが、何の役にも立ちません。うるさくて耳が痛くなるだけです。

あなたに与えられている賜物はあなたがよりいっそうしっかりとゴルゴタの十字架に頼り避難するように導いてくれますか?その賜物は他の人たちをも十字架につけられた主のみもとに導きますか?あなたはその賜物によって愛していますか?あなたはその賜物を他の人たちの状態をよりよくするために用いていますか?もしもあなたがその賜物をそのように用いてこなかったのならば、悔い改めなさい。あなたはその賜物を隠してはいけません。これからは、あなたがその賜物によってイエス様の十字架を愛しその栄光を輝かせることができるための技能と謙遜を神様から願い求めるようにしなさい。取るに足りないと感じられる賜物によっても、十字架を愛してその栄光を輝かせることができます。そのとき、その賜物は最高に価値があるのです。それとは逆に、際立つ立派な賜物が何か他のことのために用いられることもあります。そして、そのような賜物には何の価値もありません。

へりくだって用いられた賜物は教会を最良のやり方で築き上げます。傲慢や自分を他の人の上に置く態度は教会をあっという間に崩壊させます。

「聖霊様をいただいているクリスチャンは彼らがクリスチャンである証として何か恵みの賜物をもっている」という教えがあります。そして「その賜物とは異言で話すことだ」と主張する人が多くいます。「聖霊様をまだいただいていない人たちは神様の御霊をいただけるようなレヴェルにがんばって到達しなければならない」という教えも聞かれます。このような教えを私たちは受け入れません。なぜなら、聖書はこのようなことを何も教えてはいないからです。すべての「神様の子供」には聖霊様がおられます。人が神様の御霊をいただいている「しるし」は「その人がイエス様を信じている」ということです。聖霊様なしには誰もイエス様を信じることができません。聖書が語っている意味での「御霊に満たされること」というのは「私たちの中にお住みになっている神様の御霊が私たちの中でより大きな場所を支配するようになる」ということです。私たちの中でもこうなるように願い求めましょう。

「神様のもの」として生きることは、力とか奇跡ではなくて、十字架を担うことです。十字架を担うことは、弱さであり、病気であり、難問であり、軽蔑の対象になることであり、期待していた奇跡が起きないことでもあります。「このような人生を送っている人たちは、とくに他の人たちより劣っている神様の子供だ」というわけではありません。神様の御言葉によれば、実は彼らこそ、神様にとって特別に愛らしい子供たちなのです。

恵みの賜物は他の人たちも同じようにするようにいざないます。一方で、それは別の他の人たちを追い払います。私のある友人は人々が異言で話し預言している集会に出くわしたことがあります。そして「もしもイエス様への信仰がこのようなものならば、私は信仰などとはかかわりたくない」と言いました。このような集会は周りの人にこうした反応を惹き起こす可能性があるのを、パウロも知っていました。それゆえ、彼は「恵みの賜物を熟慮した上で用いるように」と命じているのです。私たちは誰もイエス様のみもとから追い払ってはいけません。それゆえ、ある種の賜物は細心の注意を払いながら用いるべきですし、ときにはまったく用いないでおくことも必要です。まずはじめに人が賜物に慣れて怖がらずにすむように賜物についてちゃんと話し教えるべきです。教えた後ならばそれらを用いてもよいのです。

神様は聖書で言われているとは反対のことをお話にはなりません。預言は書かれている神様の御言葉を覆すことはできません。聖書に反した預言があれば、それは神様からのものではありません。しかも、信仰者とか信頼できる聖書の教師と私たちがみなしている人でさえ、そのような「預言」をすることがありえます。私たちの中にある罪はこのような形でもあらわれるのです。そのような偽りの「預言」を引き合いに出して聖書に反した行いをする者は人間を神様の地位にまで引き上げているのです。そして、天国への道からさまよい出る危険な状態に陥ります。

聖霊様は聖書の御言葉の中におられ、その中で働かれています。それゆえ、神様の御霊が生み出してくださった真の恵みの賜物は人々をよりいっそうしっかりと御霊が住んでおられる神様の御言葉へと結びつけるものです。「あなたにとってその賜物が神様の御言葉をよりいっそう愛すべきものとしているかどうか」ということは、その賜物が神様からのものであるかどうか、賜物が正しく用いられているかどうか、見分けるよい指針になります。賜物が人を神様からどんどん遠ざけてしまうというケースもあるのです。そのような「賜物」は神様からのものではありません。また、神様の与えてくださった賜物が御心とは異なるやり方で間違って用いられているケースもあります。

2007年12月31日月曜日

人には、自分で自分の命を消すことが許されているのでしょうか?

今私たちは「命の貴さ」をクリスチャンとして学びなおす必要があると思います。
今年一年もすべての命の源である神様と共に歩みましょう。



人には、自分で自分の命を消すことが許されているのでしょうか?

エルッキ・コスケンニエミ


自殺は、世界のさまざまな文化の中で、時代によって、いろいろなやり方で取り扱われてきました。自殺が「勇気に満ちた素晴らしい行い」とみなされたケースも多くあります。とりわけ紀元1世紀のローマでは、自らの手で命を絶つことは、「人間が自分の命について、自ら勇気ある選択を行い、それを変わりやすい運命の手に放棄したりはしなかった」ことを示すものとみなされました。

旧約聖書は自殺について4つのケースを挙げています。
1)士師記9章54節(アビメレク)
2)サムエル記上31章4~5節(サウル)
3)サムエル記下17章23節(アヒトペル)
4)列王記上16章18節(ジムリ)
多くの場合、人々の行動について評価を下さずに語るのは、旧約聖書に典型的な特徴です。にもかかわらず、読者は、たとえばサウルやアヒトペルのケースに関しては、彼らの自殺が「間違った道の間違った結末」であったことを理解します。新約聖書にあらわれる自殺の唯一のケースは、イスカリオテのユダの最期です。ペテロとユダという、罪に落ち込んだふたりの人間の後悔を比べてみるとそこに決定的な違いがあることに、クリスチャンたちは昔から注目してきました。すなわち、ペテロは悔いてキリストのみもとへと戻ったのに対し、ユダは後悔したあと絶望して自殺への道を選んだのです。

血に塗れた過酷な迫害は、初期の教会史に深い刻印を押しました。その時期には、あがない主イエス様を否定するぐらいなら自らすすんで死を選んだクリスチャンたちがいました。ある意味で彼らは迫害における英雄たちでした。
「殉教を慕う心は自殺を求める心に近いのではないか」とみなす研究者たちもいます。しかし実際は、クリスチャンに対して「自分からすすんで拷問を受けて、死になさい」などという教会の教えや助言はありませんでした。教会は何世紀にもわたって愛をもって殉教者たちを覚えてきましたが、一方では自殺を否定してきたのです。

神様の命令であるモーセの十戒の中の第五戒は、「あなたは殺してはならない」です。この主の命令に基づいて教会教父ラクタンティウスは、「人間は非常に聖なる存在であり、神様は人の命をそれを殺した者の手から要求なさる」と言っています。神様御自身が人間の中に命の炎を吹き入れてくださったのです。偉大な創造主の「時」がくると、主御自身がその命の炎を吹き消されるのです。このように行う権威は人間には与えられてはいません。他の人に対してもまた自分自身に対しても。私たちは命を神様の御手からいただきます。たとえそれが痛みと苦しみに満ちた困難な人生であったとしてもです。
私たちは「命を守る」ために働くべきです。それゆえ、隣り人の生きる意欲を聞いて助けて守るのがクリスチャンの義務です。この点について私たちはもっと他の人たちに対しキリストが与えてくださる愛をもつべきだし、もっと彼らを助ける意欲が今まで以上に必要なところです。

自殺してしまった人たちを裁くのは私たちの仕事ではありません。私たちは彼らを神様の御手にゆだね、彼らがすべての罪から憐れまれるように祈ります。
「偶然に生れた人はただの一人もいない。今存在しているのは偶然ではない。神様に忘れられている人もいない。人ひとりひとりの命は神様にとって貴くかけがいのないものだ」という真実を、今生きている私たちは決して忘れてはなりません。

2007年12月19日水曜日

もしも目の前に荒野があらわれたなら

信仰生活に疲れて、いろんな理由から教会に通う力もない、と感じることは誰でもあるでしょう。
そのような時にどうすればよいのか、少し考えてみたいと思います。


「もしも目の前に荒野があらわれたなら」

エルッキ・コスケンニエミ


イエス様を信じるようになるとき、多くの人はたくさんのことを経験します。ところが、時とともにそれら経験したものがすべて消えてしまうということがあります。そのようなときに何をすればよいのでしょうか。信仰は一瞬だけの泡のようなものにすぎないのでしょうか。真理とは何の関係もない、人の心の中の生々しいあらしにすぎないのでしょうか。

いつの時代もほとんどのクリスチャンが、こうした問題にぶつかってきました。この問題に対してよい薬を見つけた人もいれば、やましい良心をもちつづけている人もいます。「自分で信じる」という能力が消えると同時に、信仰を失ってしまう人が何人もいます。

自分自身の状態を正直に見つめて、「私は信仰者にはなれない。私は自分の信仰を失ったのだもの。」などという人も多いです。この人の言っている初めの半分は正しいです。しかし、終わりの半分についてはべつにそうなると決まっているわけではありません。それどころか、まさに今こそ本当の神様の恵みを見つけることが可能になるのです。

人が自分の中に「信じるための起爆剤」をもっている間は、その人の信仰はある種の「外面」をもっています。しかし、そうした起爆剤が底を尽きると、「自分の力」なるものは取り去られてしまいます。自分の力が完全に消えうせてしまったときになってはじめて、人は、神様の愛を受けるにはまったくふさわしくないはずである自分のような者を愛してくださっている神様へ、自分の心をあずけることができるようになります。聖書の神様に対して、心が開かれるのです。御自分を罪深い世の命として差し出してくださった神様に、自分を明け渡します。神様の恵みとはどういう意味か、わずかながらも次第にわかってくる時になったのです。

ルター派の信仰の最も貴い宝石のひとつに、日々復唱すべき信仰告白の第3条(聖霊について)の次のような説明があります。
「第3条 聖化について
聖霊様を、私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠の命を信じます。アーメン。

この意味は何でしょうか。答え。

「私は自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみもとに来ることもできない」ことを、私は信じます。けれども、聖霊様は、福音を通して私を召し、その賜物をもって私を照らし、真の信仰のうちに聖め、保ってくださいました。(以下略)」

これはへりくだった信仰告白であり、また祈りでもあります。私がキリストを選んだのではなく、キリストが私を選んでくださいました。もしも神様が今私から御霊を取り去るなら、私は一日たりとも信仰に留まることはできません。

人は、自分の力で行うことができ、知ることができる間は、聖礼典(洗礼と聖餐のサクラメント)とは何のかかわりもなく生きています。ところが、自分の力がすべて消えうせてしまうと、神様の力が大切になってきます。神様は洗礼において、私たちの上にキリストを着せてくださったのです。それはちょうど暖かくて清潔なコートを着せてくださるのと同じです(ガラテアの信徒への手紙3章27節)。[1]
聖餐式に参加するときに、あなたは自分の唇でキリストに、そのからだと血に触れることになります(コリントの信徒への第1の手紙11章)。
そのときに神様は私たちから遠く離れておられるのではありません。すぐ近くにおられて、私たちを憐れみ、罪を赦し、世話してくださっているのです。また、私たちにクリスチャンとして生きる新しい力を与えてくださっているのです。

イエス様を信じるようになることは、多くの人にとって素晴らしい経験です。とりわけ、「自分は信仰者などには到底なれない」とはっきりわかったときにはじめて、キリストの恵みが見出されるのです。そのときに、自分の積み上げてきた仕事は溶け去ってしまいます。しかし一方では、神様のみわざ、聖書、洗礼、聖餐とざんげ[2]とは、揺らぐことのない「岩」であることがあきらかになります。
こういうわけで、「荒野」はべつに悪いことばかりではありません。荒野は私たちに、自分の力をわきに斥けて、神様の力を見つめるように教えてくれます。ルターは、「神様は天国まで届くほどの、燃え上がる愛のオーブンである」と言っていますが、それはこのことを意味しているのだと思います。

「しかしシオンは、「主は私を捨て、主は私を忘れられた」と言いました。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあるでしょうか。たとえ彼らが忘れるようなことがあっても、私は、あなたを忘れることはありません。ごらんなさい、私は、手のひらにあなたを彫り刻みました。あなたの石がきは常に私の前にあります。」(イザヤ書49章14~16節) 

[1] 「キリストの中へとバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのです。」
この「着た」というのはギリシア語では中動態です。すなわち、人間が自分の力で積極的(能動的)にキリストを着たのではありません。といって、人間は一方的に(受動的に)キリストを着せられているわけでもありません(訳者註)。
[2] 「ざんげ」とは、神様に自分の罪を告白し、神様から罪の赦しの宣言をいただくことです。牧師が、ざんげする者の罪の告白を聞き、それから神様の御前で神様にかわり罪の赦しを宣言します。ざんげをした者は、その赦しの宣言が、神様御自身からのものであることを、疑わずにかたく信じなければなりません。

2007年12月15日土曜日

イエス様は、賜物であり模範です。

今回のテーマは、私たちにとってイエス様はどのようなお方であるか、ということです。当たり前のようでいて、バランスよくとらえるのが意外に難しいことがらだと思います。


イエス様は、賜物であり模範です。

エルッキ・コスケンニエミ

イエス様について語る人は多くいます。しかし、彼らはとくに「信仰者」になりたいと思っているわけではありません。彼らはあるいは信仰の道を捜し求めている人たちなのかも知れません。彼らは、イエス様の教えが知恵に満ち正しいことや、皆がイエス様の生き方や教えのとおりに教え生きるのが望ましいことを、よく知っています。しかし、彼らは、イエス様が私たちにとって、「賜物と模範」という二つの意味をもった存在であることを理解していません。そして、このことにまだ気が付いていない人は迷子になっています。

「イエス様が私たちにとって賜物である」というとき、次のことを意味しています。イエス様は私の罪を取り去って、私を神様の子供にしてくださいました。私はそのようなことをしていただくには値しない者なのに、イエス様がゴルゴタの十字架で私の悪い思いや言葉や行いを取り去ってくださったおかげで、私は罪のないきれいな存在でいられるのです。さらにイエス様は、私の人生の日々の生活の中で私の傍らを共に歩んでくださいます。イエス様は私の世話をすることや、つまずいた私を立ち直らせることや、私に罪の赦しを与えることに疲れてしまうようなことはありません。洗礼盤のほとりで、主の聖餐の台で、ざんげの執行に際し、神様の御言葉をひもとくとき、私はこの賜物をあがめます。私からは何も要求されていません。私は神様からたくさんのものをいただこうとしているのです。

「イエス様が私たちにとって模範である」というとき、次のことを意味しています。私たちのために御自分の命を差し出すために、神様の栄光から汚れに満ちたこの世に来られたとき、イエス様は御自分に従う者たちひとりひとりに模範を示してくださいました。私を救ってくださるときに、イエス様は御自分の命をまったく惜しまれませんでした。それゆえ、私は「自分の使命は自分だけを大切にすることではなくて隣人を愛することにある」、と理解するのです。この愛はたんなる思想ではなく、十字架のイエス様をたえず模範とするものです。十字架でイエス様は罪人のためにすべてを犠牲にし、しかも御自分を虐待する者たちのために祈られたのでした。私は本当にたくさんの罪を赦していただいたので、私には誰かと憎しみ合ったり、誰かを見下したりする権利はないのです。「私たちは愛し合います。なぜなら、イエス様がまずはじめに私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの第1の手紙4章)。

このようにイエス様は賜物でもあり模範でもあります。多くの人はイエス様を模範とみなそうとしています。しかし、イエス様が私たちにとってまずなによりも賜物であることを理解しない限りは、イエス様を模範とみなしても何の益もありません。仏教徒もイエス様の模範を褒め称えています。にもかかわらず彼らは真のイエス様を見出せないままでいるのです。イエス様のペルソナは人間の私たちにとって謎です。聖霊様がイエス様を私たちにとっての賜物であることをはっきり示してくださるときにはじめて、この謎が解けます。そして、そのあとでイエス様御自身が私たちにとって模範にもなるのです。

イエス様は私たちにとってまず第一に賜物であり、そしてその次に模範なのです。もしも人がイエス様をたんなる模範とみなすなら、その人は真のイエス様を理解してはいませんし、クリスチャンでさえありません。私は「クリスチャン」です。「キリストと共に十字架につけられた者」です。なぜなら、キリストが私をクリスチャン、「神様のもの」にしてくださったからです。そして、私の残された全人生は、私の偉大な模範(師匠)に学び従っていくという、心躍るチャレンジにほかなりません。

2007年12月7日金曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?

今回はクリスチャンの特権である聖餐式の意味について考えてみることにしましょう。


私たちは聖餐について何を信じていますか?

ヤリ・ランキネン

「主の聖餐について私たちの諸教会(ルーテル教会)はキリストのからだと血とは聖餐の中に本当に存在しており、聖餐を受ける者たちに対して分け与えられます。私たちの諸教会はこれとは異なって教える者を峻拒します」(アウグスブルク信仰告白第10条)。

「これは私のからだです。(中略)これは私の血です」(マタイによる福音書26章26~28節)。この御言葉によって主イエス様が言われたいのは、「御自分が聖餐式の中に、ほとんど見えないかたちをとりながらも、本当に、他の場所よりはっきりと、存在しておられる」ということです。

ある人から「牧師が聖餐について正しく教えているか、どうしたら知ることができるか」とたずねられたルターは、その人が牧師に対して次のような質問をしてみるように命じました、「あなたが聖餐を分け与えているときに、あなたの手に持っているものは何ですか?」。もしも牧師が聖餐がどれほどすごいことであるかわかったならば、その牧師は「私は手にイエス様を持っています」と答えることでしょう。

イエス様はパンとぶどう酒の中におられます。それゆえ、牧師は祝福された聖餐のパンとぶどう酒を高く持ち上げて、それからそれらに対してひざまずくことがあるのです。あるいは、礼拝出席者たちが「神の小羊(イエス・キリストのことです)」に祈り歌うときに、牧師が聖壇の傍らに退いて、聖壇の中央にある聖餐のパンとぶどう酒の中におられるイエス様のみが、会衆の賛美の対象となるようにすることもあります。

どういったところからイエス様を見つけることができるでしょうか?病人が癒されたり、人が霊に満たされて倒れたり、などと特別なことが起きているところに、イエス様はおられるのでしょうか?それとも、イエス様の存在を体感できる集会とか、まれに見る優れた説教者がいるところに、イエス様はおられるのでしょうか?イエス様はそういったところにもおいでかもしれません。しかし、少なくとも、イエス様は聖餐の中に確実に存在しておられます。なぜなら、イエス様御自身がそのように約束してくださったからです。あなたは聖餐式に行きなさい。そうすればあなたはイエス様と会うことができます。あなたのかかえている事柄を聖餐のテーブルに携えていきなさい。そして、それらの重荷をイエス様にあずけなさい。そうすればイエス様はあなたに、あなたが必要としているものをくださいます。イエス様に会いたい他の人たちも聖餐のテーブルにつらなるようにさそいなさい。

「「神の子」(イエス・キリストのこと)がパンとぶどう酒の中に存在している」というのは、ナイーヴな迷信的な考えに感じられるかもしれません。「天国で父なる神様の右の座におられるイエス様が、聖餐の中におられる」こととか、「イエス様はいろいろな場所で行われている聖餐式に同時に存在されている」ということを、私たちの理性はおそらく理解しないことでしょう。こうした事柄を信じるのが難しいのは、聖餐式で「イエス様にお会いしている」とは感じられないからでもあります。「イエス様がおられるならそれを感じるはずだ」と私たちは考えがちなのです。私たちの理性や感情がどうであっても、神様の御言葉が何を言っているか、見つめて、それを信じるべきです。このようにして私たちは信仰を殺してしまう理性の乱用から守られ、私たちの信仰が自分の感情に左右されてしまうことからも守られます。信仰は神様の御言葉に基づくべきものです。すなわち、「私たちは聖書が言っていることを信じます」ということです。こうすれば、私たちの信仰は堅く保たれます。神様の働きは私たちの感覚や理解には依存していません。

「イエス様が本当に聖餐の中に存在している」ことを信じるのが難しい場合があるのは、聖餐式がとても地味なものだからでもあるでしょう。聖餐を配るのは不完全な人間であり、天から音が響き渡るわけでもないし、聖餐にあずかるのも罪人の群れです。ルター派の教会の信仰の教えは、「十字架の神学」と呼ばれます。神様はこの世では御自分の力を隠しておられます。そして、神様が働かれているのは、そうは見えないところにおいてこそなのです。

私たちが信じるか信じないかにはかかわりなく、イエス様は聖餐の中におられます。私たちの信仰が聖餐をつくりだすわけではありません。聖餐をつくりだす(つまり聖餐を聖餐たらしめる)のは、神様の御言葉です。

いかにしてイエス様がパンとぶどう酒の中におられるか、私たちは無理やり説明しようとしたりはしません。なぜなら、聖書はそれについて何も語ってはいないからです。私たちの好奇心がそれについてもっと知りたいと思っていても、聖書が言っていることだけを言うことで満足すべきです。

パウロは、聖餐はイエス様とのつながりである、と書いています(コリントの信徒への第1の手紙10章16節)。私たちと、私たちの罪を帳消しにしてくださるお方との間につながりが生まれるとき、私たちは「自分たちの罪がすでに帳消しにされている」という恵みを実際に我が身に受け取ることができるようになります。すなわち、私たちはそのとき罪の赦しをいただくのです。ルターは「聖餐にはどのような益があるか」という問題にこう答えています、「この聖礼典(「サクラメント」、ここでは聖餐をさしています)において私たちに罪の赦しが与えられています」。

聖餐式は罪の赦しの恵みをつくりだしませんが、そのかわり、すでに用意されているその恵みを分け与えます。聖餐式はイエス様をくりかえし犠牲としてささげる場ではなく、イエス様が一度限りの十字架の犠牲によって確保してくださった恵みを提供する場なのです。

とりわけこのことを理解するのは容易ではありません。聖餐式で人は聖壇のもとに来てひざまずき、祝福された聖餐のパンとぶどう酒を受け、罪の赦しをいただきます。「神様の恵みがこんなに容易に得られるはずがない」と、私たち人間は考えがちなのです。人間には罪が隅々まで染み付いているので、人間が考えることは、信仰にかかわる事柄については正しく教えない「欺きの声」なのです。イエス様のみもとに自分の罪をもってきて、罪の赦しを乞う人は、すべて赦されます。「まさにこのように恵みは簡単なことなのだ」と聖書は言っているのです。

聖餐式の最も難しいところは、その簡単さにあると言えるでしょう。私たち人間は、「あらゆることは、それを得るために自分で働いたその報酬として受け取るべきだ」という考え方に慣れています。私たちは、こうした考え方を神様の恵みに対してもあてはめがちなのです。「自分の生活から一番悪い罪だけを取り除くことができたら」、「少なくとも数日間はいつもよりよい人として生活することができれば」、「十分に深く罪を悔いることができたなら」、「悪い行いの償いをしたら」、「長く熱心に祈るなら」、「そうすれば私は神様のみもとに行くことができるし、神様は私のことを憐れんで下さる」などというように、人は考える傾向があります。しかし、神様の恵みは商売の取引の品とは違います。それは「ただ」(つまり「無代価」)なのです。神様の恵みを「買う」必要はまったくありません。それを受け取るのにまったくふさわしくないような人も、それをいただくことができます。もしも私たちが神様の「ただの恵み」について何か理解したのなら、それによって私たちは自分の信仰に堅固な基盤を得るのです。「信じている」という感情が消えてしまったり、「私はどうしようもない」とか「自分の信仰は非常に弱い」と感じるときでも、神様の恵みは変わらずに有効です。私たちは自分を恵みに完全にゆだねてよいのです。恵みにゆだねて弱い罪人である私たちは居心地よく生活していけます。恵みにゆだねて私たちは前にすすむ力が与えられ、天国に入って行きます。

これは「神様の恵みが聖餐の食卓にのみある」という意味ではありません。恵みはまた、宣教された福音や罪の赦しの宣言や洗礼の中にもあります。神様の恵みは豊かです。この同じ恵みが、神様が選ばれた多くの手段を通して、私たちのところにやって来ます。私たちはこれらのすべての手段を必要としています。なぜなら、「神様の恵みが十分であるかどうか、疑う」という不信仰が私たちの中にしつこく残っているからです。

聖餐式は罪の赦しをいただく場所です。それゆえ、聖餐式へと心を整える正しい方法は、自分の罪に気が付いて、悔い、それを告白し、罪の赦しを乞うことです。悔いることには、「私たちが罪から解放されるための力を真剣に神様に願い求める」ことが含まれています。

「あなたがたは、このパンを食べ、この杯から飲むたびごとに、主の死を宣べ伝えているのです」(コリントの信徒への第1の手紙11章26節)。聖餐式はイエス様の死を宣べ伝えることです。それは、イエス様の十字架について語る説教と同じように働きかけます。すなわち、十字架の意味がはっきりと示され、信仰が強められます。私たちは、どのようにして聖餐式がこのような働きかけをするのか、わかりません。「私たちの理解力に触れることがらだけが私たちの信仰を強める」と、私たちは考えがちなのです。にもかかわらず、聖餐式ではこのようなことが起きています。説明のしようがない方法で、聖餐式は信仰を養ってくれます。主の死を宣べ伝えることは、信仰について証することをも意味しています。日曜日の朝に教会に行き、そこで聖餐にあずかるとき、あなたはあなたの主を証しているのです。

誰が聖餐式に連なることができるのでしょうか?イエス様は聖餐の食卓におられ、みもとに来るように呼んでおられます。2000年前に、イエス様にとって悪すぎる人は誰もいなかったし、イエス様を必要としないほどよすぎる人もいませんでした。これは今でも同じです。

驚くほど多くの人はこう考えています、「自分が聖餐式によりふさわしい存在になってから、聖餐式に行こう」。しかし、ルターはこう書いています、「もしもあなたが本当に自分の義や清さを見つめて、もはや何もあなたを誘惑しない状態に達するために努力するつもりなら、あなたは決して聖餐式に連なることはできないでしょう」。悪魔は人にその人の罪を示します。なぜなら、悪魔は「人がイエス様から離れたままでいる」ことを望んでいるからです。聖餐式というのは、人が目を自分から完全に背けて、イエス様を見つめることにほかなりません。このイエス様から人は、神様の子供が生活し天国に入るために必要なすべてのものを、贈物としていただくのです。

「キリストのからだであることをわきまえないで聖餐を食べまた飲む者は、自分に対して裁きを食べまた飲むことになります」(コリントの信徒への第1の手紙11章29節)。聖餐の食卓からキリストや恵みを求めない者もまた、キリストのからだと血を得ます、ただし、それらを自分の裁くものとして得るのです。それゆえ、聖書が聖餐式について教えていることを軽んじる者は、聖餐式にあずかるべきではありません。それほど聖餐式は聖なるものなのです。
子供が聖餐式をほかの食べ物から区別して、「聖餐式はイエス様とお会いすることだ」と知っているなら、その子供に聖餐を配ることができます。こうした問題について子供からあまり要求しすぎてはいけません。

初期のキリスト教会では、ひどい罪を行っている者に対しては聖餐をあずからせないようにすることがありました(コリントの信徒への第1の手紙5章5節)。このようにすることで、「人が罪を悔い改めようとはしない場合には、どこへ落ち込んで行くか」について、教会は教えてきたのです。罪を悔い改めようとはしない人は、神様の恵みがない場合に当然の報いとして受けるべき場所へと行くほかないのです。ですから、教会は今でも同じように教え実行するべきです。そうすることは、滅びへの道へとさまよいこんだ多くの者にとって必要であり、十分に真剣な警告であり、また、「その人のことを本気で心配している」ことを示すことにもなるでしょう。そうすることはまた、私たちが滅びの存在を本当に信じていることを示すことにもなります。

婦人牧師の配る聖餐式は正しい聖餐式でしょうか?私はこのことをあるビショップ(フィンランド福音ルーテル教会の指導者のひとりだった人)に尋ねたところ、彼はこう答えました、「私はわかりません。神様のはっきりした御言葉に反して牧師になった人間(女性)が施行したり配ったりする聖餐式を、神様が祝福してくださるかどうか、私は知りません。私は確実な道を選びます。だから、私は確実に聖餐をいただける聖餐式に連なるし、他の人たちにもそうするように忠告しています」。

2007年11月28日水曜日

どうして神様は人になられたのでしょうか?

今度の日曜日からアドヴェントの時期が始まります。それは教会暦の一年のはじめでもあります。
そこで、今回はアドヴェントの意味を考えてみることにしましょう。


どうして神様は人になられたのでしょうか?

エルッキ・コスケン二エミ


1.Ceterum censeo[1]

ここフィンランドでは、クリスマスもアドヴェントもその意味が見失われてしまいました。人々はそれらの意味を考えてみようともしません。
こうした一般の潮流に逆らって、ここでは、アドヴェントの時期を覚え、アドヴェントが本来クリスマスへの「橋渡し」であることの意味を考えてみることにしましょう。


2.ネヘミヤ記9章

他の多くの場合にもそうするように、私たちはここでも旧約聖書から出発することにしましょう。旧約の民が神様との関係を保ってどれほど「よく」生きていくのに成功したか、私たちは頭を悩ませる必要はありません。彼らの歩みの初めの部分については、ネヘミヤ記9章にある「民の大きな罪の告白」に記されています。それは、創造主や主である神様への賛美から始まります。神様はアブラハムを選び、彼の子孫に「約束の地」を与えることを約束してくださいました。ファラオの反対にもかかわらず、神様は御自分の民をエジプトから導き出してくださいました。神様は御自分の律法を御自分の民にお与えになり、彼らが反抗的であったにもかかわらず、耐え忍んでくださいました。神様は御自分の民を導いて、城壁に囲まれた町をつぎつぎに征服させました。神様の民が神様を見捨てるという罪を犯したゆえに、神様は御自分の民を攻め圧迫してくる敵の手に渡されました。しかし、彼らが苦しんでいるときに彼らの声を聞いて彼らに士師を与えてくださいました。主は御自分の民に対して預言者たちを通して語られましたが、民は聞こうとはしませんでした。神様をないがしろにする民の罪を長い間耐え続けたあとで、主は御自分の民を異邦人たちの手に渡されました。しかしながら、神様の忠実さはエルサレムの崩壊の後でさえも絶えることがなかったのです。こうして民は捕囚の中で生きていくことが許されました。ネヘミヤの時代になり、今や民は自分たちの土地に帰ることができました。そして、異邦人の政治的な支配下におかれる原因となった自分たちの罪を、神様に告白したのでした。

このようにネヘミヤ記9章はイスラエルの民の歴史を描き出しています。そこには、「神様は忠実であられたが、民は反抗的だった」というはっきりとしたメッセージがあります。

このようなイメージによく似ているのが、使徒の働き7章にでてくるステファノの説教です。人々は神様をないがしろにして生きてきたのに、神様は忠実で義であられました。人々が神様を捨て去ったにもかかわらず、神様は忠実さを守り続け、御自分の民を見捨てたりはなさいませんでした。神様は御計画を人々の力を借りて実現されたのではなく、むしろ「人々(の反抗)にもかかわらず」そうなさったのでした。神様はある人々の殺意を逆用して、御自分の民を守るために御計画を実現されたのでした。そのよい例が、ヨセフがエジプトに売られたことです。そのとき、実は神様がヨセフを通して多くの民の命を救おうと計られたのでした(創世記50章20節)。

すでに旧約聖書を通して、私たちは大切なことを学ぶことができます。その学ぶべきこととは、「ある人間のグループが神様の民の地位を得て神様の御心を知ることができる」ということだけではありません。さらに大きな問題は、「人間の神様をないがしろにする態度と悪さ」です。このために私たちは神様の御心に従うことができず、次から次へと新しいやっかいな問題の中に自分から突っ込んでいくのです。しまいには罪が私たちを神様から最終的に引き離してしまうことになります。人間の働きは何の助けにもなりません。神様の救いの働きが必要になります。神様は全世界に対して救いを用意してくださったのです。神様は歴史の中で働かれ、そこでひとりひとりの人に対して彼らが御自分のみもとへと帰ってくるための「道」を用意してくださったのでした。このすべてが「救いの歴史」と呼ばれるものなのです。


3.救いの歴史と新約聖書

新約聖書は、この「救いの歴史」が何を目指しているか、すでに詳しく知っていました。救いの歴史の神学者としては、とりわけ、ヘブライの信徒への手紙の書き手と福音書記者ルカを挙げることができます。ルカによる福音書のはじめの数章は、「キリストについての福音」がいかに矛盾なく密接に「旧約の義」と結びついているかをよく示しています。ザカリヤ、エリサベツ、ハンナ、そしてシメオンは、神様の働きが御民の只中で根本的に新しい段階に移行するのを見ました。これにはまた、イエス様が御自分の受難を予告なさったことも関係しています(ルカ9章22節)。ルカによる福音書24章13~35節では、復活されたイエス様御自身が、エマオへの道でふたりの弟子に神様の救いの歴史について教えてくださいました。ルカは「使徒の働き」でも救いの歴史について語り続けます。福音はシメオンの言葉どおり「異邦人を照らす光」です(ルカ2章32節)。「使徒の働き」の中でルカは、福音が新しい地域に伝えられていく過程を、詳細かつ正確に描き出しています。たとえば、サマリアに(8章)、何人かの異邦人に(10~11章)、すべての異邦人に伝道するプログラムとして(13章)というようにです。

同様に、ヘブライの信徒への手紙の背景にも、神様の救いの歴史について慎重に吟味された見方があります。このことは手紙のはじめの言葉からもわかります(ヘブライ1章1~2節)。ナザレ人イエス様は何の準備もなくこの世にあらわれたりはなさいませんでした。。それは、神様が昔から何度も様々な方法で預言者たちを通して語られたあとになってはじめて実現しました。この世に来たのは、偉大な大祭司であり、神様の御前、至聖所で、唯一の永遠に有効な犠牲をささげられた方でした。実は旧約聖書のあらゆる犠牲は、このただひとつの犠牲の予型だったのです。大いなる贖罪の日のただひとつの犠牲がそれらすべてをもはや必要のないものにしてしまいました。同時に、ヘブライの信徒への手紙の書き手は神様の民の荒野での歩みに目を留め、荒野の旅の後から来る休息を「神様のもの」である人々に「来るべき世」で約束されている「安息日」の予型として描き出しています。このように、旧約聖書は全体として「キリスト」へと集約されていきます。そして、キリストの中に罪人は命を見出します。


4.アドヴェントの時期と短い断食

私たちは、歴史の中での神様の救いのみわざに対して心が少しも動かないこともあります。それは、神様の救いの働きが「たんに文字の上のことで難しい」と感じられるためかも知れません。だからこそ、私たちはアドヴェントの時期が必要なのです。昔からアドヴェントは、イースターの前と同様に断食の時期でもあります。まさしくこの断食の時期のおかげで、私たちは神様の救いのみわざをたんに文字の上ではなく、実生活の中で体験することができるようになるのです。

イエス様のこの世で歩まれた道は、寝ぼけた人々がとりとめもなく思い巡らす特徴のない世論を伝え広めるようなことではありませんでした。イエス様の道は恥辱と下降への道であり、屈辱を甘受した人の道でした。イエス様は神様からお生まれになった神様であったにもかかわらず、動物小屋のくさいにおいや寒さや飢えを避けようとはなさいませんでした。人々の心のかたくなさ、神様をないがしろにした生活、最良の弟子たちにさえあった無理解、友の裏切り(ユダの接吻など)や親しい者たちの逃亡などが、イエス様の心を動かしました。打たれて死にそうなほど弱った、茨の冠をかぶせられたイエス様が民の前に押し出されたとき、民は「痛みに満ちた人、病気を知っている人」(イザヤ書53章)に対して「死を!」と叫んだのでした。
アドヴェントの時期に私たちは、とりわけイエス様の歩まれた足跡を探り、それらすべてを愛することを学びたいと思います。それらは私たちの心にとって、「復活された主が私たちを愛しており、私たちのためならすべてを与える用意ができているお方であること」を示す証印なのです。

神様のみわざは、何かの「理論」などではなかったし、今もありえません。血が御子の顔から流れ出たとき、同じように父なる神様の心からも血が流れ出たことを、私たちは知っています。熱情の神様は罪を憎んでおられます。しかし、罪人たちを愛しておられます。このように、キリストの十字架は、人間の私たちには理解しがたいような「神様の怒りと愛」を示しているのです。

[1] 大カトーが論弁の終わりによく用いた表現(ラテン語)。「ところで、私の意見では、」という意味。