2007年12月7日金曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?

今回はクリスチャンの特権である聖餐式の意味について考えてみることにしましょう。


私たちは聖餐について何を信じていますか?

ヤリ・ランキネン

「主の聖餐について私たちの諸教会(ルーテル教会)はキリストのからだと血とは聖餐の中に本当に存在しており、聖餐を受ける者たちに対して分け与えられます。私たちの諸教会はこれとは異なって教える者を峻拒します」(アウグスブルク信仰告白第10条)。

「これは私のからだです。(中略)これは私の血です」(マタイによる福音書26章26~28節)。この御言葉によって主イエス様が言われたいのは、「御自分が聖餐式の中に、ほとんど見えないかたちをとりながらも、本当に、他の場所よりはっきりと、存在しておられる」ということです。

ある人から「牧師が聖餐について正しく教えているか、どうしたら知ることができるか」とたずねられたルターは、その人が牧師に対して次のような質問をしてみるように命じました、「あなたが聖餐を分け与えているときに、あなたの手に持っているものは何ですか?」。もしも牧師が聖餐がどれほどすごいことであるかわかったならば、その牧師は「私は手にイエス様を持っています」と答えることでしょう。

イエス様はパンとぶどう酒の中におられます。それゆえ、牧師は祝福された聖餐のパンとぶどう酒を高く持ち上げて、それからそれらに対してひざまずくことがあるのです。あるいは、礼拝出席者たちが「神の小羊(イエス・キリストのことです)」に祈り歌うときに、牧師が聖壇の傍らに退いて、聖壇の中央にある聖餐のパンとぶどう酒の中におられるイエス様のみが、会衆の賛美の対象となるようにすることもあります。

どういったところからイエス様を見つけることができるでしょうか?病人が癒されたり、人が霊に満たされて倒れたり、などと特別なことが起きているところに、イエス様はおられるのでしょうか?それとも、イエス様の存在を体感できる集会とか、まれに見る優れた説教者がいるところに、イエス様はおられるのでしょうか?イエス様はそういったところにもおいでかもしれません。しかし、少なくとも、イエス様は聖餐の中に確実に存在しておられます。なぜなら、イエス様御自身がそのように約束してくださったからです。あなたは聖餐式に行きなさい。そうすればあなたはイエス様と会うことができます。あなたのかかえている事柄を聖餐のテーブルに携えていきなさい。そして、それらの重荷をイエス様にあずけなさい。そうすればイエス様はあなたに、あなたが必要としているものをくださいます。イエス様に会いたい他の人たちも聖餐のテーブルにつらなるようにさそいなさい。

「「神の子」(イエス・キリストのこと)がパンとぶどう酒の中に存在している」というのは、ナイーヴな迷信的な考えに感じられるかもしれません。「天国で父なる神様の右の座におられるイエス様が、聖餐の中におられる」こととか、「イエス様はいろいろな場所で行われている聖餐式に同時に存在されている」ということを、私たちの理性はおそらく理解しないことでしょう。こうした事柄を信じるのが難しいのは、聖餐式で「イエス様にお会いしている」とは感じられないからでもあります。「イエス様がおられるならそれを感じるはずだ」と私たちは考えがちなのです。私たちの理性や感情がどうであっても、神様の御言葉が何を言っているか、見つめて、それを信じるべきです。このようにして私たちは信仰を殺してしまう理性の乱用から守られ、私たちの信仰が自分の感情に左右されてしまうことからも守られます。信仰は神様の御言葉に基づくべきものです。すなわち、「私たちは聖書が言っていることを信じます」ということです。こうすれば、私たちの信仰は堅く保たれます。神様の働きは私たちの感覚や理解には依存していません。

「イエス様が本当に聖餐の中に存在している」ことを信じるのが難しい場合があるのは、聖餐式がとても地味なものだからでもあるでしょう。聖餐を配るのは不完全な人間であり、天から音が響き渡るわけでもないし、聖餐にあずかるのも罪人の群れです。ルター派の教会の信仰の教えは、「十字架の神学」と呼ばれます。神様はこの世では御自分の力を隠しておられます。そして、神様が働かれているのは、そうは見えないところにおいてこそなのです。

私たちが信じるか信じないかにはかかわりなく、イエス様は聖餐の中におられます。私たちの信仰が聖餐をつくりだすわけではありません。聖餐をつくりだす(つまり聖餐を聖餐たらしめる)のは、神様の御言葉です。

いかにしてイエス様がパンとぶどう酒の中におられるか、私たちは無理やり説明しようとしたりはしません。なぜなら、聖書はそれについて何も語ってはいないからです。私たちの好奇心がそれについてもっと知りたいと思っていても、聖書が言っていることだけを言うことで満足すべきです。

パウロは、聖餐はイエス様とのつながりである、と書いています(コリントの信徒への第1の手紙10章16節)。私たちと、私たちの罪を帳消しにしてくださるお方との間につながりが生まれるとき、私たちは「自分たちの罪がすでに帳消しにされている」という恵みを実際に我が身に受け取ることができるようになります。すなわち、私たちはそのとき罪の赦しをいただくのです。ルターは「聖餐にはどのような益があるか」という問題にこう答えています、「この聖礼典(「サクラメント」、ここでは聖餐をさしています)において私たちに罪の赦しが与えられています」。

聖餐式は罪の赦しの恵みをつくりだしませんが、そのかわり、すでに用意されているその恵みを分け与えます。聖餐式はイエス様をくりかえし犠牲としてささげる場ではなく、イエス様が一度限りの十字架の犠牲によって確保してくださった恵みを提供する場なのです。

とりわけこのことを理解するのは容易ではありません。聖餐式で人は聖壇のもとに来てひざまずき、祝福された聖餐のパンとぶどう酒を受け、罪の赦しをいただきます。「神様の恵みがこんなに容易に得られるはずがない」と、私たち人間は考えがちなのです。人間には罪が隅々まで染み付いているので、人間が考えることは、信仰にかかわる事柄については正しく教えない「欺きの声」なのです。イエス様のみもとに自分の罪をもってきて、罪の赦しを乞う人は、すべて赦されます。「まさにこのように恵みは簡単なことなのだ」と聖書は言っているのです。

聖餐式の最も難しいところは、その簡単さにあると言えるでしょう。私たち人間は、「あらゆることは、それを得るために自分で働いたその報酬として受け取るべきだ」という考え方に慣れています。私たちは、こうした考え方を神様の恵みに対してもあてはめがちなのです。「自分の生活から一番悪い罪だけを取り除くことができたら」、「少なくとも数日間はいつもよりよい人として生活することができれば」、「十分に深く罪を悔いることができたなら」、「悪い行いの償いをしたら」、「長く熱心に祈るなら」、「そうすれば私は神様のみもとに行くことができるし、神様は私のことを憐れんで下さる」などというように、人は考える傾向があります。しかし、神様の恵みは商売の取引の品とは違います。それは「ただ」(つまり「無代価」)なのです。神様の恵みを「買う」必要はまったくありません。それを受け取るのにまったくふさわしくないような人も、それをいただくことができます。もしも私たちが神様の「ただの恵み」について何か理解したのなら、それによって私たちは自分の信仰に堅固な基盤を得るのです。「信じている」という感情が消えてしまったり、「私はどうしようもない」とか「自分の信仰は非常に弱い」と感じるときでも、神様の恵みは変わらずに有効です。私たちは自分を恵みに完全にゆだねてよいのです。恵みにゆだねて弱い罪人である私たちは居心地よく生活していけます。恵みにゆだねて私たちは前にすすむ力が与えられ、天国に入って行きます。

これは「神様の恵みが聖餐の食卓にのみある」という意味ではありません。恵みはまた、宣教された福音や罪の赦しの宣言や洗礼の中にもあります。神様の恵みは豊かです。この同じ恵みが、神様が選ばれた多くの手段を通して、私たちのところにやって来ます。私たちはこれらのすべての手段を必要としています。なぜなら、「神様の恵みが十分であるかどうか、疑う」という不信仰が私たちの中にしつこく残っているからです。

聖餐式は罪の赦しをいただく場所です。それゆえ、聖餐式へと心を整える正しい方法は、自分の罪に気が付いて、悔い、それを告白し、罪の赦しを乞うことです。悔いることには、「私たちが罪から解放されるための力を真剣に神様に願い求める」ことが含まれています。

「あなたがたは、このパンを食べ、この杯から飲むたびごとに、主の死を宣べ伝えているのです」(コリントの信徒への第1の手紙11章26節)。聖餐式はイエス様の死を宣べ伝えることです。それは、イエス様の十字架について語る説教と同じように働きかけます。すなわち、十字架の意味がはっきりと示され、信仰が強められます。私たちは、どのようにして聖餐式がこのような働きかけをするのか、わかりません。「私たちの理解力に触れることがらだけが私たちの信仰を強める」と、私たちは考えがちなのです。にもかかわらず、聖餐式ではこのようなことが起きています。説明のしようがない方法で、聖餐式は信仰を養ってくれます。主の死を宣べ伝えることは、信仰について証することをも意味しています。日曜日の朝に教会に行き、そこで聖餐にあずかるとき、あなたはあなたの主を証しているのです。

誰が聖餐式に連なることができるのでしょうか?イエス様は聖餐の食卓におられ、みもとに来るように呼んでおられます。2000年前に、イエス様にとって悪すぎる人は誰もいなかったし、イエス様を必要としないほどよすぎる人もいませんでした。これは今でも同じです。

驚くほど多くの人はこう考えています、「自分が聖餐式によりふさわしい存在になってから、聖餐式に行こう」。しかし、ルターはこう書いています、「もしもあなたが本当に自分の義や清さを見つめて、もはや何もあなたを誘惑しない状態に達するために努力するつもりなら、あなたは決して聖餐式に連なることはできないでしょう」。悪魔は人にその人の罪を示します。なぜなら、悪魔は「人がイエス様から離れたままでいる」ことを望んでいるからです。聖餐式というのは、人が目を自分から完全に背けて、イエス様を見つめることにほかなりません。このイエス様から人は、神様の子供が生活し天国に入るために必要なすべてのものを、贈物としていただくのです。

「キリストのからだであることをわきまえないで聖餐を食べまた飲む者は、自分に対して裁きを食べまた飲むことになります」(コリントの信徒への第1の手紙11章29節)。聖餐の食卓からキリストや恵みを求めない者もまた、キリストのからだと血を得ます、ただし、それらを自分の裁くものとして得るのです。それゆえ、聖書が聖餐式について教えていることを軽んじる者は、聖餐式にあずかるべきではありません。それほど聖餐式は聖なるものなのです。
子供が聖餐式をほかの食べ物から区別して、「聖餐式はイエス様とお会いすることだ」と知っているなら、その子供に聖餐を配ることができます。こうした問題について子供からあまり要求しすぎてはいけません。

初期のキリスト教会では、ひどい罪を行っている者に対しては聖餐をあずからせないようにすることがありました(コリントの信徒への第1の手紙5章5節)。このようにすることで、「人が罪を悔い改めようとはしない場合には、どこへ落ち込んで行くか」について、教会は教えてきたのです。罪を悔い改めようとはしない人は、神様の恵みがない場合に当然の報いとして受けるべき場所へと行くほかないのです。ですから、教会は今でも同じように教え実行するべきです。そうすることは、滅びへの道へとさまよいこんだ多くの者にとって必要であり、十分に真剣な警告であり、また、「その人のことを本気で心配している」ことを示すことにもなるでしょう。そうすることはまた、私たちが滅びの存在を本当に信じていることを示すことにもなります。

婦人牧師の配る聖餐式は正しい聖餐式でしょうか?私はこのことをあるビショップ(フィンランド福音ルーテル教会の指導者のひとりだった人)に尋ねたところ、彼はこう答えました、「私はわかりません。神様のはっきりした御言葉に反して牧師になった人間(女性)が施行したり配ったりする聖餐式を、神様が祝福してくださるかどうか、私は知りません。私は確実な道を選びます。だから、私は確実に聖餐をいただける聖餐式に連なるし、他の人たちにもそうするように忠告しています」。