2014年5月19日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 3章21〜31節 キリストの血における神様の恵み(その2)


キリストの血における神様の恵み 32131節(その2)



この罪の赦しは、あなたにも私にも与えられています。
なぜなら、神様はこう言われているからです、

すべての人は罪を犯したため、
神様の栄光を持たない存在になっており、
彼らは、
代価なしに、
神様の恵みにより、
キリスト・イエスにおけるあがないを通して、
義とされる存在になっているのです」(2324節)。

ここでは、すべての人について言われているので、
これはあなたにも当てはまります。

「これほどまでに熱く愛してくださる神様から逃げる必要はありません。
神様の愛をやり過ごすべきではありません」、
というメッセージによって、
神なる聖霊様は、私たちの逃亡生活を終わらせてくださるのです。

2014年5月9日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 3章21〜31節 キリストの血における神様の恵み(その1)

  
キリストの血における神様の恵み 32131節(その1)
  
 

パウロは、今か今かと切り札を出すタイミングをうかがってきました。
その切り札とは、
人は皆、確かに神様の御前で罪深い者であり、
地獄(つまり、永遠に神様のいない世界)に落ちるのが当然の存在であるが、
彼らにはイエス•キリストという方がおられる、
ということです。

すべての人間が罪を行ってきた、というのは事実ですが、
人は誰でもイエス様のゆえに罪の赦しという賜物を無代価でいただける、
というのも本当のことなのです。

イエス様が十字架で流された血が、
私たちの罪を帳消しにしてくれたからです。

そのおかげで、今、
もはや疾しい良心を抱えたまま生きる必要はないのだ、
というメッセージが、罪人全員に宣べ伝えられています。

神様と永遠に引き離される滅びの裁きの宣告を受けるのではないか、
と恐れる必要はもうなくなりました。
なぜなら、
神様は罪を赦してくださり、
それを私たちに贈り物として下さったからです。

神様が贈り物を下さったということは、
神様がその贈り物について何らかの支払いを決して要求なさらない、
ということです。

まさにそれゆえ、 
まったくただで、私たち自身の能力や持ち物などには関係なく、
罪の赦しがいただけるのです。 

神様を生活の中に正しい仕方でお迎えすることもできず、
正しくへりくだることもできず、
堅く神様を信じることさえできない私たちを、
神様は憐れんでくださいます。

とりわけ、自分のいたらなさを自覚している者皆に対して、
次のことは大いなる慰めとなります。
すなわち、
イエス•キリストの十字架の死のゆえに、
あなたの負債はあなたに代わって支払われ、
あなたの罪は帳消しにされている、
ということです。

イエス様のあがないの死のゆえに、
神様は罪深い存在である人間にその罪を赦してくださる、
というのが、
「ローマの信徒への手紙」の一番大切なメッセージです。

2014年5月7日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 3章9〜20節 人は皆、罪深い存在です(その2)


人は皆、罪深い存在です 3920節(その2)


19節と20節にいたってようやく、パウロは、
なぜ彼がこのように長々と人々の罪深さと悪さについて語ってきたか、
その理由を明らかにします。
別に彼は、溜飲を下げるために、
人々のことをあれこれ批判してきたわけではありません。
彼が意図していたのは、
人間全員の口を塞ぎ、彼らを神様の御前で罪人とすることでした。

ファリサイ派の人と徴税人について
イエス様が語られたことが実現します。
律法は、ファリサイ派の人の口を封じませんでした。
それで、その人は自分の罪深さを少しも理解せず、
迷妄の中に留まりました。
一方、律法によって、徴税人の口は封じられ、
その人は聖なる神様の御前に連れて行かれました 
(「ルカによる福音書」18章)。

これは、神様の聖なる律法の最も重要な役割です。
私たち人間は、
自分が善い人間であり、
神様に対しても十分認めていただけるくらいには善い存在だ、
と思い込んでいます。
律法の説教を通して、
神様はこの勘違いを私たちから取り除いてくださるのです。

神様が私たちに対して何を要求なさっているか、
について聖書が語る時、
私たちは良心が動揺するのを覚えます。
自分たちが実は神様の御旨を破っていること、
また、神様の怒りの下で生きていることが、
少しずつわかってきます。

もしも神様が
私たち自身の罪に対する正当な裁きを私たちに下されるならば、
私たちの前に待ち受けているのは、
神様からの罰と怒りと地獄しかないことに、
私たちは気がつきます。

このように、律法は、私たちに罪の自覚を与えます。
それは、
「何が罪か」ということだけではなく、
「罪とはそもそも何か」ということも教えてくれます。


しかし、
神様が私たちに気づかせたいのは、
罪の自覚だけではありません。

2014年5月5日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 3章9〜20節 人は皆、罪深い存在です(その1)


人は皆、罪深い存在です 3920節(その1)
 
  
ここで、パウロは、今まで述べて来たことを総括します。
彼は人間の悪さを示す多くの箇所を聖書から引用しています。
実際、このことを伝える箇所は聖書にはたくさんあります。
イスラエルの民の歴史は、
この民が(神様に対して不従順な)かたくなな民であったことを
十二分に示しています。
パウロはこの箇所で、人間一人一人のありのままの姿を証しているのです。
人は、神様の御前では、この世にいる間は最後まで罪深い存在なのです。


私たちは、自分自身の罪深さに触れないよう、
わざと迂回することに長けています。
もちろん、私たちは完全無欠な存在ではありません。
誰もそのような人はいません。
しかし、自分が神様の御前で罪深い存在であり、
それに見合う報酬として、天国へは入れないという宣告を受けていることを、
私たちは認めているのでしょうか。
このことを認めない人々にとっては、
(神様からの)逃亡の旅は長く辛いものになります。
というのは、両親の悪い行いについては、
その子孫が神様への愛を示さない場合には、
3代にも4代にもわたって報復を下し続ける熱情の神様が、
彼らのすぐ後を追いかけてくることになるからです。
そして、逃亡の旅も、結局は失敗に終わります。
遅くとも最後の裁きにおいて、それは途切れてしまいます。